2017年06月13日

Solaris ソラリス

昨日観てきたばかりの映画「メッセージ」に触発されて思い出した別の物語についての記憶から・・・すみません、長文です。^^
ソラリス(Solaris)・・・という名詞というか言葉というか、詩的なその音の響きも、それに付されて語られるスタニスワフ・レム(ポーランドの作家1921〜2006)創作による物語の、理知と心に働きかけてくる存在感も共に大好きです。
自分の理解の及ばないものや受容不可能に見える状況に遭遇した時、その理解の尺度が相変わらず自身の経験と観点から離れられないのが大抵の人間の現実であり、この世界の様々な事象に重なって現れ出る人間社会の限界でもあります。
異質なものに相対した時に、その存在や状況から身を守らなければ自らが損なわれる・・・世界はそういった恐れにあふれているような気がしてなりません。そして何かを異質だと感じた時点で、同じくそれを異質だと認め合う関係にある者たち同士で互いに頷き合い、理解し辛い(あるいはしたくない)という以外に特別な共通認識もないまま、異質であること=無関係な存在、場合によっては排除すべき敵であるかのように見なしてしまうことへと、比較的安易に流れていってしまうこと、有りがちではないかと思うのです。
映画「メッセージ」を観て思い出したのが、中学生の頃に手にしたスタニスワフ・レムが書いた「ソラリスの陽のもとに」という小説、また、その映画化作品(タルコフスキー[1972]とソダーバーグ[2003])による二作品)をのちに鑑賞した時に抱いたリセット感覚でした。
続きを読む
posted by フランキン at 10:38| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

映画「メッセージ」・・・あなたの人生の物語

小さなシアターで一日に一回だけの上映・・・10人にも充たない観客とともに固唾を飲んで見つめたスクリーンに映し出された映像とストーリーは、かつて一度は出会いながらも既に記憶の彼方に埋もれてしまっていた物語との、初めての体験的邂逅を実現するものでした。作品の日本公開タイトルは「メッセージ」原題は“Arrival”・・・テッド・チャン原作の小説「あなたの人生の物語」(原題 “Story of Your Life” )を映像化した物語です。

517PHxRljSL.jpg

この物語、小説にしても映画にしても、誰かの解説や感想などは無縁のままで体験してもらいたい、そしてその後に観た者、読んだ者同士で思うがままに語り合ってみたい・・・そう思わずにはいられない作品です。なのでこの日記にも僕なりの感想めいたものは書きません。

・・・とか言いながら、でもひとつだけ。映画を観ながら、たまたま読んでいた全く無関係な小説の中にあった禅の語「滴水適凍」という言葉がなぜか想起されました。その語についてふれた小説中の鎌倉の古寺の住職によれば、「水が一滴垂れると、すぐさま凍る。また、滴ると、一瞬のうちに凍る。刹那刹那、瞬間瞬間。間髪を容れずに、十全にそのものの本分を生き切る」・・・ということだそうな。

その後の考え方や物ごとの受け止め方や世界観にさえ影響を及ぼしそうな働きかけにあふれた小説や映画とのめぐり合いというのは、時に本当にあるものです。今日の映画はまさにそのひとつでした。

posted by フランキン at 23:38| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

ソロモンの偽証 後篇・裁判

4/11に公開されたばかりの映画、「ソロモンの偽証 後篇・裁判」を見てきました。以下はネタバレは含みませんが、未見の方にはちょっと興醒めにつながることもなり得る日記ですので、どうぞご注意を。
宮部みやきの原作小説は、聖典並みに分厚い単行本全3冊 計1500ページを超える超大作で、それでもほとんど一気読みだったあの小説がどんな風に映画作品として再編され創られたのか、とても気になっていました。
ひと月早く公開された「前篇・事件」を見終えた時点では、原作とは少々異なる脚色やキャラクターの造形についての変更などは、あの大作をまとめ上げるには致し方ないかなと思える程度に思え、むしろ映像化のためのアイディアのようにも感じられて、原作に思いっきり夢中にさせられた読者のひとりである僕から見ても、後篇への期待も高まるなかなかの仕上がり・・・そんな風に思っていました。

が、しかし・・・あくまで原作に心酔した僕個人の印象ですが、この「後篇・裁判」・・・残念ながら、失速です。

まず、裁判とタイトルされた後篇であるにもかかわらず、そのタイトルとは裏腹に、裁判劇として成功していない・・・というのは少し優しい言い方で、脚本と演出が、肝心の裁判そのものに殆ど重きを置いていないような印象を受けました。

原作においては、自分たちの学校生活を激しく揺さぶったクラスメートの死亡事件と、それに伴って発生した無責任で心無いマスコミの攻勢、事件の波紋から学校を守り生徒たちを守るという点においてそれぞれに異なる信念を抱く教師たちの不一致と父兄たちの思惑、騒動を終息させようとするばかりで真実を追求しようとしない大人たちへの不信と疎外感に晒された城東第三中学校2年A組(死亡した生徒のクラス)の生徒たちをはじめ、自分たちで真実を明らかにしようと悩みに悩み、そして決意のうちに立ち上がった生徒たちが、空白となった学校生活と友達同士の信頼を取り戻すために役割を分担しながら懸命になって開廷する学校内裁判での攻防が迫真のものとして描かれていました。中学生による模擬的な裁判であるにしても、その展開は大人も固唾をのんで見守りたくなるほど鋭く真剣なものとなり、それだけに、生徒たちが心に受けた傷の深さ反映されていたように思います。

映画と原作は必ずしも同じではないことは十分わかっているつもりですが、映画の「前篇・事件」の成功でいやがおうにも期待が高められた学校内裁判が、「後篇・裁判」では今ひとつ盛り上がりに欠けた、ダラリとした展開になってしまったのが残念でなりません。裁判劇に不可欠な事実・真実を間に置いての検察と弁護側の応酬が全くなく、せっかく証人として証言台に立っている人物が、何を立証するための尋問を受けているのかも曖昧なまま進んでいく裁判描写に、違和感を覚えました。

思うに映画の製作者の意図するところは、観客にいわゆる感動を与えたいというところに集中していて、それゆえにラストに明かされる真実のみを重視し、そこに至るまでのプロセス、つまりは物語そのものを結果的に疎かにしてしまった・・・というところでしょうか。



ただ、あえて演技経験のある少年少女俳優を用いず、全国10000人の中学生が参加したというオーディションを経てキャスティングされた少年少女たちについては、その完成度についてのバラつきは否めないものの、主人公の藤野涼子をはじめ主要な登場人物たちについては、それもやはり「前篇・事件」の中が多いのですが、「おっ!」と思わせられるほどに冴えた演技場面にも遭遇できたことも事実です。

それだけに、彼女たちのせっかくの頑張りが、後篇の不完全燃焼的な脚本と演出により、十分に生かされ切らなかったような印象が、この物語を読み、観ることを愛する読者・観客のひとりとして大変残念に思います。
それでも最後にひとこと・・・観る価値はあります。いえ、観て欲しいです。そして印象&感想は、人それぞれです。
posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

風に立つライオン

小説や映画のPRなどで使われる「感動」という言葉が働きかけてくるものがあまり好きではなくて、「感動の」・・・とか、「泣ける・・・」などと言葉が付されている作品に出会うと何となく後回しにしてしまうか完全に無視してしまう傾向が僕にはあります。

もちろん、PRの意味で付されている感動という言葉と作品の中身そのものとは何の関係もないわけで、僕自身の勝手な選り好みからせっかく良い作品に出会う機会だったのに、それを遠ざけて損をしてしまう・・・僕にはそういうことがきっと幾つもあったのだろうと思います。

「風に立つライオン」は、さだまさしさんの歌う同じタイトルの曲が大好きだったこともあり、あの歌の中の人物と風景がどんな感じに物語として映像化されたのか興味がありました。なので今日、あ、もう昨日(4/1映画の日^^)ですが、観に行きました。

さだまさしさんの歌には、実際にアフリカで診療に携わった実在のモデルとなる医師がいたということはこれまでも聴いたことがありましたが、でもだからといってこの映画、元となる歌と同様に決してドキュメンタリー的なものとはならずに、主人公となる医師と親しい関係にある数人の人々のモノローグからなる極めてリアルな(よい意味での)寓話のような印象を抱きました。

きっと同じような経緯で、そして同じような環境と現実の中に自らの人生を見つけ歩んでいるであろう幾人もの人々の経験・・・物語というのは、強いて言えばそういった幾つもの人生の統合された表現のようなものであって、だからこそそれに接した時に、異なる多くの人々が自分自身の中に重なり合う部分を見出し、心を動かすのだろうと思います。感動というのは、きっとその時にこそはじめて見る人読む人の中に芽生え、その人自身の人生の風景とともに命を持つに至るのだと思います。

僕はアフリカに行ったこともなければ、過酷な環境の中で命を懸けた仕事をしたこともありません。でも、この映画の中に登場した主人公の医師、航一郎(大沢たかお)、看護師のワカコ(石原さとみ)、離島医療の道を選んだ主人公の恋人、貴子(真木よう子)が物語の中で浮かべた表情の幾つかは、まるで僕自身のアルバムの中の写真に写る人物のように心に残ります。映像と僕の想像力との狭間で、きっと彼らの生き方やありさまの幾つかが僕の中の何かと共振したからなのだろうと思います。

ひとつの出来事があって、つながりの有る無しに関わらず、その出来事が起きたが故に人生が動かされる・・・立つ位置によって、見つめる方向によって物語は幾通りにもなり、そのすべてに重なり合う襞がある。個人の人生も、この世界も、そうやって創られていくのだろうと感じました。
さだまさしさんの詞のように、最高潮に達して歌い上げられるような感動・・・というよりも、憶えておきたい人たちの記憶・・・そんな風に思える幾人かの人々・・・映画や小説が思い出になり得るという、僕にとっては久しぶりの感覚でした。

感動というものは、誰かにより前もって約束される必要もなく、自ら期待する必要もさらさらなく、こうやってささやかに浸透してきては心にふれてくるだけで、僕にはもうそれで十分です。曲は「風に立つライオン」・・・さだまさし。
posted by フランキン at 04:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

UNO 「そしてインカは・・・」

「世界最古の洞窟壁画〜忘れられた夢の記憶」というヴェルナー・ヘルツォーグのドキュメンタリー映画を見た時に、フランスのショーヴェ洞窟とその中に遺る3万2千年前の人類が洞窟の内壁に描いたという幾つもの絵画が醸す不思議な臨場感にのみ込まれて、心惹かれたまま数日間を過ごしたのは今年の1月のことでした。最近、雑誌「考える人」の中に、その洞窟と映画にふれて文化人類学者の今福龍太氏が書いた記事の中に、その時に僕が感じかつ僕の拙い表現では表すことなど到底叶わなかった想いと印象が見事に書き表されている文章を読んで再び無性に感動してしまったのですが、その中にあった言葉が「人類の最も古い記憶のアーカイヴ」というものでした。

なんでこんなことを書いているのかというと、昨日(8/8木)の午後のラジオ「ノアノア」に電話ゲストとして出演してくれたUNOの新しいアルバム「そしてインカは〜」が誕生する背景となった一連の出来事にも、僕は同じような感覚を覚えるからなんです。2009年、にっぽん丸での「南米と南洋の楽園クルーズ」での演奏旅行のさなかに立ち寄ったペルーのクスコの遺跡でUNOのふたりが体験した出来事とそれによって生じたイメージの連鎖と作曲衝動は、一種の古い記憶のアーカイブスを開いて再現するに等しい出来事だったのではないか?・・・秋にリリースが予定されているUNOのニューミニアルバム「そしてインカは〜」の全曲を聴いて、僕はそんな風に思うのです。今回のノアノアでは、作曲&ピアノの大平里美さんのトークを交えながら、リリース直前のこのアルバムをそっくりそのままOnAirしました。ご聴取&メッセージ、ありがとうございました!
posted by フランキン at 19:37| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月06日

飛浩隆の「象られた力」そして「グラン・ヴァカンス」

象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)
読みかけていた飛浩隆の中短編集「象られた力」を今朝がた読み終えました。森の中で目にする樹々の名をいつのまにか自分がすべて知っていることに突然気づいてしまったかのような、彼の小説を読む時に感じさせられるのは、自分自身の内と外の輪郭が少しずつ意味を失くしていきながら、この世界の事物・事象についての認識が拡大していくような実感です。それは物語の中を漂いながら、その世界の独自の視野と自分のリアルな視界とが重なって、ストンと腑に落ちたような通りの良さというか、無かった視力を一瞬で得たかのようでもあり、言ってみれば一種の気づき≠ェ降ってきた瞬間に出会ったような読書感覚です。
グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)
飛浩隆の作品との出会いは長編「グラン・ヴァカンス」・・・訪れる人が絶えて数千年を経た仮想リゾート「数値海岸」(コスタ・デル・ヌメロ)に果てしなく続く平和な日常の中に身を置くAIたちが経験する、世界の崩壊と一夜の闘争を、瑞々しい生体感覚にあふれた表現をもって描いた物語でした。その物語が、映画でも舞台劇でもなく、ダンス作品として再現されるのだとか・・・スケジュールが合わず僕自身は行けないのですが、興味ありです。今頃はきっと開演の間近に控えた頃でしょうか・・・シェアします。
大橋可也&ダンサーズ新作公演「グラン・ヴァカンス」
posted by フランキン at 16:37| 静岡 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

密林の語り部

密林の語り部 (岩波文庫)

この世に生を受けてからのすべての記憶や定義を消し去って、何もかもを白紙の状態に戻してもう一度この世界を見つめることができたなら、すべてはどんな風に見えるのだろう? 最近そんなことを取りとめもなく考えることがあります。伊豆に移住してからの僕の中には、自分の五感が捉える日々の経験を形作っているすべての思い込みを初期化して、世界に流れた時間や時代に左右されない、無理なこととはいえ原型のようなものに触れてみたいというような、どこか願望じみたものがあるのです。

ペルーの作家 、マリオ・バルガス・リョサ(2010年ノーベル文学賞受賞)の小説、「密林の語り部」を昨夜読み終えて、改めてその感覚を強く覚えるとともに、現代の日本といういわゆる先進国と云われる国に住む者として、触れてみたいと思うその原型のようなものからはもはや遠く離れてしまったところに自分はいて、もしそれが出来たと思える瞬間があるとしても、それは単に独りよがりな自己満足に過ぎないのかもしれないという思いにかられ、今更ながらに今の自分の立ち位置を知らされたような気がしました。

続きを読む
posted by フランキン at 03:46| 静岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

ホモ・スピリチュアリスと呼ぶ方がしっくりくる

数日前に、『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』というドキュメンタリー映画を見る機会(DVDでだけど)があったのだけどて、フランスのショーヴェ洞窟の中で発見された、約3万2千年も過去へと遡る太古の人類の画家たちが描いた人類最高の芸術作品を、カメラが初めて捉えて映像として見せてくれた貴重な作品でした。いろいろと考えさせられました。

無学な僕には最新の科学についてなど知らないことや分からないことばかりなのだけど、映画の中である科学者が語った言葉がやけに心に残りました。

地球上の歴史のある時期、人類の幾つかの派が生存を競った頃があり、ホモ・サピエンスが生き残った。それは賢い者≠ニいう意味があるが、私はこの呼び方があまり好きではない。ホモ・スピリチュアリスと呼ぶ方がしっくりくる
(確かこんな感じ)

確かに太古の洞窟の平面ではないデコボコとした壁面にあのように動きのある精密で生命感に富んだリアルな絵が描けたのだとすれば、現代の人間が過去の人類よりも賢い・・・などとは、自信をもって語れなくなる気がします。

世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶 [DVD]
世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶 [DVD]
posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月23日

BEATLESS

BEATLESS

1年ほど前に、近未来を舞台として描かれた「あなたのための物語」という小説で初めて長谷敏司の小説を読みました。読後にしばらくつづいた虚脱状態が僕にとっては新鮮な驚きでもあったことと、彼の物語世界とそこに生きている登場人物たちが読み手の心に分け入ってくる時の説得力のある鮮明な存在感は、とにかく僕にとっては、静かに・・・でもものすごく後をひく♀エ覚だったのを懐かしく思い出します。

またあのような彼の作品を読んでみたい・・・と思っていたところ、発売と同時に書店で見つけ(伊東では珍しい^^)て、思わず手にとってしまったのが、長谷敏司の新刊「BEATLESS」でした。雑誌に連載されていた時(全然知らなかったけど)には、この物語の世界観とキャラクターたちにアニメファンをぐいぐいと惹きつけるようなredjuiceのイラストが挿入されていたらしいのだけど、今回の書籍化は、600ページを優に超える長編の物語世界を、挿絵抜きで純粋に小説として読ませ切ることに拘った、じつに堅牢で美しい装丁の本となっていて、小説を読み始めるという行為が、どこか近未来の世界へと通ずる扉を開いて入っていくような感覚があり、久しぶりにハードカヴァーの書籍(普段は大抵図書館利用^^)を購入して読む≠ニいう経験にワクワクしてしまいました。

既読の「あなたのための物語」は、人間と人工の知性との関係を、病に冒された主人公の女性科学者の死への道程に絡めて描き尽くした壮絶な物語でしたが、この「BEATLESS」も、今からちょうど100年後の世界を舞台にして、人間と、hIe(ヒューマノイド・インターフェイス・エレメンツ)、つまりは社会の中で人間の仕事を多くを肩代わりする人型のアンドロイド、人間が創ったモノとの関係を徹底的に見つめ尽くす物語となっています。BEATLESS公式サイトはこちら 

SFという空想物語の中のことなのですが、「BEATLESS」の舞台となる100年後の社会風景は、なんでもありの荒唐無稽なファンタジー世界というよりも、登場するガジェットも登場人物達が直面している諸問題も、すべてが彼らにとっての100年前にあたる現在の経済社会と、現在に至るまでの僕らにとってのまだそれほど遠く離れてはいない過去へとルーツが繋がっていて、描かれる多くの出来事や現象も今の時代に既にその兆候が現れており、人間の嗜好をより効果的に成就するためにモノがモノによって淘汰され、モノに対して人が心を向けることなくただ消費を際限なくくれ返し、やがてはそれらのモノたちが可能にしてくれている自動化なしでは生きていけないし社会も成り立ち得なくなった未来に、それらのかたち有るモノたちが人間との関わりの中でどんな意味≠持つのか?テーマはものすごく心当たりを感じるものとなっています。

100年後の未来を生きる少年と、ある日突然彼の前に現れた美しい女性のかたち≠したhIe・・・「ヒト」と「モノ」のボーイ・ミーツ・ガール。このシチュエーションだけを見れば、何やらありがちなアニメやライトノベルのようにも感じられてしまいそうですが、さすが長谷敏司・・・「あなたのための物語」で読ませてくれた問題提起の鋭さ、そしてそれを語る際の徹底ぶりは、精密なディテールと見事に映像的(映画的というよりアニメ的)な場面展開を伴って読み手にぐいぐいと迫り、この物語のテーマは読者である僕らの前にいま既にあるのだという、真摯な感覚さえ湧き上がらせてくれます。

僕的には、かなぁ〜り、お薦めの・・・というよりも、大好きな一冊となりました。そしてレイシアには、僕も完全にアナログハックされてしまい、読み終えた今もまだ後をひきまくっています。
posted by フランキン at 11:51| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月08日

映画の中に描かれる不幸が持つ意味・・・映画「ヒミズ」のこと

二日ほど前に、園子温監督の映画、「ヒミズ」をDVDで見ました。園子温監督作品は初体験・・・原作のコミックもこの映画の存在も何も知らないまま、レンタル店に新作として置かれているのに気づいて手に取ったのですが、久々に日本映画を見て激しく揺さぶられました。果たして自分自身がこの映画から何を感じたのか?映画を見終えた時の突き上げるように感じた強い印象が、落ち着く程度にに時間を置いて、少しだけ書き留めておきたいと思いました。

続きを読む
ラベル:ヒミズ 園子温
posted by フランキン at 21:03| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

「冬の華」と健さんとチアリのギター

映画と旅というテーマでの昨日のラジオでもかけた曲ですが、「冬の華」という映画のテーマでそのまんま「冬の華」・・・というギター曲。殺してしまった友人の娘を獄中から仕送りしつつ影ながらその子の成長を見守ってきたのだけど、いざ出所してみると、あれほど会いたかったその娘の前に立つことがどうしてもはばかられる・・・やがて男は再び過去の世界のしがらみに・・・。高倉健さんが寡黙に演じた秀次という男・・・セリフの多くを僕はいまでも諳んじることができるほど好きな映画でした。横浜の夜の路地で季節外れに咲いて雪をかぶってしまった鉢植えの花を秀次がしゃがんで指先で雪をはじいてどけてあげるシーン・・・その花の色は映画のタイトルの「冬の華」の文字の色と同じで、世間にもどって普通の暮らしを夢見てきたにもかかわらず、取り残されていく主人公の心を象徴していたような気がします。少しばかり前の横浜を感じさせてくれる映画ですね。
posted by フランキン at 01:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

遙かなる山の呼び声

明日のラジオが旅と映画・・・っていう感じなのでちょっと思い起こしてたら「遙かなる山の呼び声」の予告編を発見。いい映画だったなぁ〜。映画のタイトルそのものが、「シェーン・カムバック!」で有名なアラン・ラッド主演のパラマウント映画「シェーン」のテーマ曲と同じで、雪をかぶる山々を背景にした雪どけであのジメっと泥ついたワイオミングの開拓村の風景と、高倉健さんが放浪して行き着いた北海道は中標津の風景と重なる。山田洋次監督の「遙かなる・・・」は「シェーン」へのオマージュがたっぷり感じられる映画でもちろん「シェーン」も大好きな貴重な名画だと思うのだけど、僕的にはこの日本版シェーンと言ってもよい「遙かなる・・・」は何度見てもたまらなく好い素晴らしい作品なのだ!!
posted by フランキン at 21:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

風の絵師



ドラマを放送に合わせてリアルタイムに見ることは殆どないのだけれど、DVDで見始めるとどうしても止められなくなります。どうやら僕もネロリもけっこうはまるタイプですね〜夫婦ふたりして。(^^;)

韓流史劇の「イ・サン」の時代と時を重ねて実在した、金弘道(キム・ホンド)と申潤福(シン・ユンボク)というふたりの天才絵師の運命を描いた「風の絵師」というドラマがあまりに素晴らしいです。(まだ半分も見てないんですけどね・・・^^)「イ・サン」にも登場した図画署(トファソ)の風景、そしてそこに生きるふたりの実像についての大胆な仮説を元に、今に残された幾つもの絵画に秘められた当時の人々の息吹・・・それらを描いたふたりの画家と、ドラマ「イ・サン」にも描かれていた当時の朝廷内での政治的な駆け引きも交えながら、じつに繊細で優しさを感じる映像表現と起伏に富んだ魅力的な脚本と音楽ですっかり心を捉えられてしまいました。(もう何年も前の作品なんだけどね〜)

「イ・サン」を見た人は是非観てみるべし!という作品ですね。チョ・ソンモが歌うこの「風の歌という曲も、たいへん印象深いです。
posted by フランキン at 22:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月07日

転落少女

転落少女と36の必読書(上)
転落少女と36の必読書(上)
まだ読み始めたばかりですが、この本がやけにおもしろいのです。著者は30代半ばの女性、物語の主人公ブルー・ヴァン・ミアは高校生の少女。10代の少女ながら古今の文学や映画に精通したブルーを語り手として展開する極めて知的でミステリアスな物語は、その文章の至るところで、ブルーが目にしていること、感じていることの諸々が既に彼女が読み終え精通している無数の書物や映画の中のフレーズに結びつけられてイメージ化されつつ、少女らしい正直さと軽やかなアイロニーを伴って表現されていく・・・それがじつに小気味良くてユーモラスな文章になっていて、著者の知性と感性の瑞々しさを感じます。

ブルーは自分の置かれた状況にトギマギしたりドキドキしたりしながらも、自身のうちに蓄積された言葉の数々を「当てはめる」ことのできる側面を見出し、常に客観的でちょっと醒めた部分をもって語ってくれます。

今経験している事柄を既に自分が知っている事柄や知識に結びつけて再構築し、自分との関係性をより確かなものへと変換しながら、それらを経験として自分自身の認識に落とし込んでいく・・・そうすると、誰だって自分の物語を表現できるようになっていくのかもしれませんね。「本をつくれば限りなし」・・・というのはバイブルの中の言葉ですが、新しさや流行に振り回されず、その限りない本との出会いをどれだけ経験できているのか・・・?「読む」という行為というか習慣が、どれだけその人を豊かにしてくれるものなのか・・・そんなことを感じさせてくれる一冊(上・下だから二冊か^^)先が楽しみ・・・(^^;)
posted by フランキン at 21:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月01日

エンドロールが終わるとともに思わず拍手をしている自分がいた・・・映画「ヒアアフター」

久しぶりに劇場に行って見た映画は、
クリント・イーストウッド監督の最新作、
ヒアアフターでした。

ヒア アフター [DVD]

命を持ち、人生のさなかにいるという経験・・・
それでもいつか終わりが訪れることを知っている。
その向こうには、はたして何があるのだろうか?
何かがあるのだとすれば、世を去った人たちは
今どんな経験に迎えられているのだろうか?
生きているからこそ誰もが必ず想いをはせる問い・・・

人は答えを求める。

でも、すべてを知ることが
必ずしも必要なわけではないのだとも思います。
おぼろげであってもそれで充分なのかもしれない・・・。
この映画も分からないことをそのまま分からないものとして描く、
そんな慎みをもって創られています。

それでも説得力のある優しい示唆のようなものが、
シンプルに・・・働きかけるように・・落ちてくるように・・・
そうやって静かに悟性に入り込んできて
ふさわしい場所に人を落ち着かせてくれる。

この後(Hereafter)・・・
確かめ得ないことだけど、ひとりひとりの中で、
その先に待っているかもしれない経験を
「察っして」「受け止める」ことができるなら、
いま生きている人生も、また変わってくるかもしれない。
そんな風に思いました。



とにかく今までに見たことのないタイプの映画・・・
どんな娯楽作品のカテゴリーにも分けきれない作品・・・
この作品でクリント・イーストウッドは、
これまでにない特異な位置を占める映画を見せてくれたと思います。

見る人によっては苦手に感じられかねない・・・
つまりは映画への反応を二分するかもしれず、
(ひいては興行へのリスクを増やし、)
扱い方によってはヒステリックな批判や嘲笑をも招くかもしれない、
生と、死、そしてその後への問い・・・というテーマ。

でもこの映画・・・そんな重いテーマに触れながら、
少しも大上段に振りかぶらず、
登場する人物の心象を静かに描きながら、
食べること、眠ることなどの日常の風景と同じく、
生と死について考えることも
ごく自然なこと
なのだと語りかけてくれます。
そして作り手の真摯さがまっすぐに伝わってきます。
それを強く感じるからなのでしょう。
作り手の真摯さと一歩踏み込んだようなこの作品を創った
クリントに応えるかのように、
見る側の僕も襟を正してスクリーンを見つめたような気がします。

クリントの映画の変遷を振り返れば
この映画はあまりに異色だと思う。
見終わった直後に僕が強く感じるのは、
きっとこの映画は、
老境を迎えたクリント・イーストウッドの
今の心境、境地そのものなのではないか・・・?

・・・ということ。
それは全編にながれる
クリント自身が作曲によるピアノの旋律と同じく、
渇いたところに水が沁み込むように
僕に生気をもたらしてくれました。
すばらしかった。

エンドロールが終わるとともに、
思わずひとり拍手をしている自分がいました。
posted by フランキン at 19:10| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月03日

3.13「地球交響曲第七番」伊豆上映会〜人、生命、地、そして伊豆との邂逅

長文です・・・よろしければ・・・というより、
是非ご辛抱いただき、この日記の想いにおつきあいください。

ある日ネロリとともに、「伊豆にしよっか・・・」と心が動き、
ほとんど衝動的に移転を決めてこの伊豆に移り住んでから
今年で8年目になります。

横浜にいたころから、
旅という形でしばしば訪れていた伊豆・・・
今いる伊東市は、より南へ、そして西伊豆へと向かう際の
それまでは旅の途中の通過点のような形で
たいていは通り過ぎる街でした。
首都圏にも比較的出て行きやすい伊豆・・・ということで、
この街を選んだ僕らふたり・・ちょうど今頃の冬の季節でした。

まだ見ていない・・・知らない場所や歴史はたくさんある・・・
でも伊豆高原に住むようになって
シンプルに気付くことをあえてひとつ挙げるてみると、
横浜にいた頃には考えられないことですが、
夜眠る時にカーテンを引かずに眠る
ということかもしれません。

太陽・・・空・・・海・・・日が暮れて・・・やがて星が見えるようになる。

陽が沈み、空が暗く深い蒼に染まり、星々が見え始めると、
こんなにたくさん星ってあったんだ!・・・と、
しばしジッと見つめてしまいます。
やがて月が昇ると、窓から見える海にその光が映り、
海面がいつのまにか月面に変わったように銀色の光りを帯びる・・・

満天の星・・・月の光で海が月面のようになる。

時にはその銀の広がりの中に
小さな明かりを灯して夜間に漁をする船が
シルエットとして浮かび上がります。

陽が昇り・・・地も海も再び温められる太陽と月、星の動き・・・大気の動き・・・風景のゆらぎ・・・

いつのまにか眠りにとりこまれ、
そして太陽が昇るとともにその熱を伴う朝陽を顔に受け、
その暖かさにちょうど土から芽を出すようにして
朝の気配に自然と目が覚める・・・

たった一枚の布でできたカーテンという隔てを忘れるだけで、
自然は窓から親しく入り込んできて
横になったままの僕らを仲間として受け入れてくれます。

今朝の伊豆新聞
(2011.1.22「伊豆ジオパーク世界認定を目指して」)を見ると、
伊豆半島は元々はもっと南の海に位置した
火山島が地殻変動で北上
し、
それが本土と接触して半島という形を成した・・・
その証拠が古い地層から幾つも見つかっているのだと
書かれていました。

2011年1月22日伊豆新聞記事 ←クリックすると拡大されます。
2011年1月22日伊豆新聞記事
「伊豆ジオパーク 南の火山島だったことを証明」


とすると本当にこの伊豆というところは、
現在形作られている地形や風景からは
思いもよらない道筋を歩んできた、
本当に異世界・・・そしてこの地球全体のフラクタルとも言える
特異空間なのかもしれません。


山々と海・・・それぞれを繋いでなだらかに拡がる高原・・・
湖・・・森林・・・彼方に影を見せる伊豆七島・・・
生き物たちや半島という地形と高低差が生む寒さと暖かさ・・・
すべてがそこに在り、さまざまな風景が
とても近い範囲で隣り合っています。

此処に「すべて」が
まさに整えられたかのように「在る」ということ・・・確かに
伊豆半島は地球という星が持つ美しさの特徴を
際立った仕方で集約したジオラマ
であり、
そんな異次元空間の中に伊豆に住む人たちの日常があります。


IZUKEI(スピリチュアル・ジオパーク:伊豆)
IZU Spiritual Geographic Sanctuary by Interloid


日常というのは人を形作ります。
さまざまな思いの変化や成長を促します。
習慣的に見つめるもの・・・
呼応して拓かれる自分の中で新たにされる思い・・・
それらは少しずつ変化を生じさせ、
今までとは異なる精神性を育みます。
伊豆での時間の長い短いに関わらず、
それによって形作られた自分というものが確かにあります。

太陽の光を受け、
間近に感じる月と星の数に時の流れの果てしなさを見、
鳥や虫たちの声におもしろみを覚え、
空と海と山の風景の表情の移ろいに限りの無さを知る・・・
この自然を愛している・・・
そんな自分が確かに在ります。

そしておもしろいことに、
同じ想いを抱いている人同士というのは、
やはり互いの存在に気づき、
そして互いを引き寄せ合うのでしょう。
伊豆半島を形成している自然に
かけがえのないものを感じている人たちがいつしか肩を並べ
その想いの表現として今、一本の素晴らしい映画を、
この伊豆の地で上映
しようとしています。

伊豆に住んでいるごく普通の人たちによって、
2011年3月13日(日)に上映されるその作品は、
地球交響曲第七番
ガイアシンフォニーとも呼ばれ、
既に6作品も作られているこの映画に、
僕もネロリも実は初めて出会いました。
まだ予告編しか見ていない僕とネロリですが、
でも本当に素晴らしいオムニバスドキュメント映画だと思います。

2011年3月13日(日)「地球交響曲第七番」伊豆上映会についての伊豆新聞記事1.19 ←クリックすると拡大されます。
2011年3月13日(日)「地球交響曲第七番」
伊豆上映会についての伊豆新聞記事1.19


この映画にもっと早く出会っていたかった・・
正直いってそう思うのですが、でも多分この今の機会にこそ、
この映画とそれを上映しようと活動する人たちと出会うことが叶い、
今こうして自分の日記でもそのことを書いているというのは、
伊豆に移転してきてから自らの内で起きた様々な変化により、
自分たちの心がよりひらかれ、やはり今がその時ということに
他ならないのだと思っています。

初めからそこに在ったものを再び真っ直ぐに見つめ、
その大きな価値に心を通わせる・・・
そこには人が経験し得る最も根源的な清々しさの源が
あるような気がします。

この番組・・・フランキンのノアノアな風をうけては、
番組のコンセプトにも通じるテーマを掲げたガイアシンフォニーを、
この伊豆の地で上映することを実現しよう活動する伊豆の住人からなる
プラネット伊豆の愛すべき人たちの活動に賛同し、
心より応援いたします。

既にお気づきかと思いますが当ブログの左サイドバーに、
ガイアシンフォニー上映会を成功させるべく作られたサイト
プラネット伊豆へのリンクバナーを貼り付けてあります。
地球交響曲第7番 3/13(日)伊豆高原にて上映! チケット発売中!
どうぞ、このブログにお立ち寄りの際には、
そちらのリンク先サイトも是非ご覧頂きたいと思います。

映画の上映の凡そひと月前となる
2月3日(木)のノアノアには、この上映会の牽引役のひとりで
ガイアシンフォニー全作品を鑑賞しておられる安田かおるさんと、
同じくプラネット伊豆事務局の平山さなえさんをスタジオにお招きし、
上映会に向けた思いを語っていただくことになっています。

番組は電波だけではなく、
サイマルラジオ(ネット生放送)でもOnAirされますので、
この機会に多くの人たちに地球と自然に対しての感謝する気持ちを
共有できたらと思っています。

自分の変化に応じて機会というものは訪れるものですね。
地球交響曲第七番・・・
そしてそれを自分たちと自然との関わりについて
考える機会としようとする人々・・・友人たち・・・

そのすべての巡り合わせに僕もネロリも心より感動し、
感謝の気持ちでいっぱいです。

そしてこの長いブログ記事をここまで読んでくれたあなたにも感謝!!わーい(嬉しい顔)

〜関連記事〜
サーチ(調べる)地球交響曲第七番 伊豆上映会「小さなはじまり/ひとりの女性と一本のモミジの木、そしてガイアをつなぐ物語」
posted by フランキン at 14:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月14日

一年前から待ちつづけた「その街のこども 劇場版」全国ロードショー直前のノアノア生放送。

2011年1月13日(木)のノアノアな風をうけて
よく晴れた熱海にあるCiao!のスタジオから
今日は久しぶりにネロリとふたりだけでお届けした生放送でしたね。

さて、今日は番組の後半で、
皆さんにも是非見ていただきたい一本の映画を紹介しました。
昨年(2010)の1月17日の阪神淡路大震災の記念日の夜
NHKで放映され、それを見た多くの視聴者の心を動かし、
たくさんの再放映の要望に対してついに劇場版映画として再編集され、
今週末1月15日のに全国ロードショーされることになった
その街のこどもです。



サーチ(調べる)映画「その街のこども 劇場版」公式ホームページ
サーチ(調べる)阪神・淡路大震災15年 特集ドラマ「その街のこども」

ひとつのドラマにこんなに心が震えて共感を覚えたのは、
たぶんはじめてのことかもしれません。
1年前にはこのドラマについて、
僕はこのブログにも幾つも記事を書いていました。

神戸出身のある友人も、
その街のこどもを見てたまらない気持ちになり、
やはり何度も繰り返して見たのだそうです。
そして彼は、渡辺あやさんの脚本の素晴らしさを噛みしめつつ、
録画したビデオを見ながら言葉を書き出し、
台詞を再現したノートを僕に送ってきてくれたほどでした。
それほどまでの共感を呼び起こし、
なおかつ他の人とその感覚を共有したいという気持ちにさせる
力を持つ作品でした。

神戸の街に生まれ育ち、それぞれにあの震災の記憶を抱え、
今を生きているひと組の男女が偶然に震災の日の神戸で出会い、
夜の街をひたすら歩きつづける・・・
神戸に住んだことがある人ならば、
「あ、ここ、いつも通ってる!」というように
なじみ深い場所をふたりは歩いて行きます。

ふたりを演じるのは劇中のふたりと同じく、
神戸での震災の記憶を自身でももっている
森山未來さん、佐藤江梨子さん・・・
ふたりの個人的な体験と記憶が脚本にさらなる命を与え、
同じ時を経験した見えないたくさんの人たちの真実を含み、
それを表現しているのだ・・・
と気付きます。

ふたりを取り巻く街の風景・・・そして交わされる言葉・・・
放送の当日の朝に撮影したというドラマの大切なシーン・・・
そこにはリアリティに拘るというよりも、
嘘のない真実をそのまま切り取ったドラマにしたいという
役者さん、スタッフの皆さんの願いと真摯さを感じます。



映画ではテレビ枠の時間の関係で、
ドラマには含められなかったシーンを編入して、
さらに素晴らしいものとなっていることと思います。
是非見ていただきたい映画です。

テーマを歌う阿部芙蓉美さんの歌声にもふれずにはおれません。

聴く人の耳元を通り越して
心の奥にまるで湧き起こるかのように聴こえてくる
・・・
心の振動がそのまま内に入り込んでくるような
彼女のウィスパーヴォイス・・・
ドラマを見終えた時の余韻にたまらない気持ちになったのは、
映像の中に溶け込んだ彼女の歌の力の作用もあったのだと思います。

そんな阿部芙蓉美さんの歌うエンディングテーマは
音楽こちらから

全国で今週末からロードショー
皆様、ぜひこの作品を見逃さないでくださいね。

今回のOnAirでお贈りしたナンバーは

TOTO
 るんるんWhile My Guitar Gently Weeps

新田洋(現 森本英世)
 るんるんみなし児のバラード(1969年、『タイガーマスク』ED)

クロード・チアリ
 るんるん冬の華(1978年、映画『冬の華』テーマ)

新井英一
 るんるん雪に書く恋文(愛し切れなかった)
 (ウラジミール・ヴィソツキィ)

阿部芙蓉美
 るんるん青春と路地


当ブログ内での「その街のこども」についての記事
 
サーチ(調べる)2010年01月30日
それぞれのスピードで、いつかは辿り着くのかも…「その街のこども」再放送を見て
サーチ(調べる)2010年01月25日
もう視聴率なんていらない!
サーチ(調べる)2010年01月19日
「その街のこども」の再放送希望
サーチ(調べる)2010年01月18日
「その街のこども」…一夜明けての覚え書き
サーチ(調べる)2010年01月18日
その街のこども

posted by フランキン at 02:29| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月05日

経験することに正しいとか間違いなんてない・・・クリスとアーロンの物語にふれて

ひらめきこの日記では、映画「イン・トゥ・ザ・ワイルド」の内容に触れています。未見で気になる方はこの先をお読みになるかどうか、ご検討ください。
(誰がこんな長い日記に付き合うってんだ・・・?わーい(嬉しい顔)

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

裕福で恵まれた人生の路線を後にして、自分と世界とのつながりについての真理を求めてアラスカへと旅立ち、人知れず消えていった青年クリストファー・マッカンドレス。彼を描いた映画イン・トゥ・ザ・ワイルドを、公開からずいぶんと遅れて見た。

2008年アカデミー賞にもノミネートされたとても美しい作品で、この映画を見終わった僕の想いは、ここ数日読んでいたもうひとつの物語と自然とつながっていった。ユタ州ブルーキャニオンで遭難し、岩魂に挟まれた自らの右手を切り落として奇跡の生還を遂げた、アーロン・ラルストンの「奇跡の6日間」という体験手記だ。直接には無関係のこのふたりとそれぞれの経験に接して、僕の中には湧き上がってくる想いがある。

これまでの人生とそれを取り巻くすべてに偽りと虚しさを覚え、クリストファー・マッカンドレスは、大学を卒業後アレックス・スーパートランプ(偉大な放浪者アレックス)と名乗り、過去と決別して大自然の荒野を目指す。アーロン・ラルストンはアウトドアをこよなく愛し、自然の中に身を置くことに夢中で、単独で多少の危険を冒してでも冒険することをやめない。生存が直接試される場面に人が直面した時、たぶん人間はそれまでとは全く異なる新たなチャネルが開かれて大きく変化するのかもしれない。

「命あっての物種 ・・・「死んでしまえば元も子もない」・・・誰もがきいたことのある当たり前がある。そう・・・確かに命は大切にするべきだし無駄にしたくはない。でも、自ら歩んだ道の結果が死に至ったからといって、すべてが無駄となってしまうとは思えない。ふたりの経験を見た時に僕はそう思う。

自ら選んだ人生の途中で、クリスは命を落とし、アーロンは傷つくも生還を果たす。ふたりの経験はそれぞれに異なっていて、生か死かという点では正反対のコントラストを放っている。では、死んでしまったクリスは間違った人生の選択をしたのだろうか? 生きて渓谷から戻れたアーロンはクリスよりも正しかったのだろうか? ふたりの経験から僕が感じるのは、生きていく中で出会うすべてのことに、正しいとか間違いとか…そんなものなど、本当はないのかもしれない…ということだ。もし誰かの人生についてそういうことが語られるとすれば、それはその人生を歩んだわけではない全くの他人があとで勝手に付す解釈にすぎない。

クリスは今までとは異なる本来の自分を求め、それを証明する旅に出かけた。スーパートランプと名乗り、それこそが真実の発見への道に他ならず、この世界と自分との関わりを確認することになると考えていたのかもしれない。しかし映画の最後に、彼が残した言葉・・・それは、「物事を正しい名前で呼ぶ」というものだった。

僕が想像するに、彼が目指した荒野での日々を通じて見いだしたものは、今までとは別の自分などではなく、これまでの人生の中で触れてきた、もともと持っていたすべてのものと自分自身の価値の再確認だったのではないだろうか? 「僕の一生は幸せだった。みんなに神のご加護を!」と書き残したクリスの一生とは、うち捨てられたあの不思議なバスで独り過ごした日々だけではなく、クリス自身が嫌悪を抱いて後にしたそれまでの家庭での時間も、きっと含まれていたのだと思う。

自分自身に「本来」というものがあるのだとしても、それが今までと異なるものとは限らない。故に彼が最後のメッセージに書き残したサインはアレックス・スーパートランプではなく、捨て去ることをあれほど望んでいた親からもらった名前、クリストファー・ジェイソン・マッカンドレスだった。「物事を正しい名で呼ぶ」とは、その名を持つ自分自身を正しく受け入れて見つめること、つまり自分が何者であるのかを理解し、そのことに価値を置くことなのだと僕は思う。

確かに、クリスは命を落とすことになった。それは彼自身にとっても予想外に早い死だったかもしれない。彼の妹も両親も、旅の途中で出会った多くの人にとっても、彼の死は悲しい出来事だったにちがいない。そのことで彼の人生についてどんな厳しい解釈を付すのも自由だ。でも僕は考えてしまう。

彼がとった行動によって、この世界とそこに住む人たち(我々も含めて)には、それがなかった場合には存在し得なかった経験(人によっては変化や気づき)が生まれた。彼が生きた時間はわずかに24年間・・・しかし確かに彼が「在った」ことの影響は、この世界にあるのだと思う。そしてそれはクリスだけに限らず、僕らすべてにもいえることなのではないだろうか?たとえ目に見える記録が何も残ってはいないような、名もない生き方であっても、誰かが生まれ、そして生きた・・・ということには、事実としての影響力と価値が存在すると僕は信じている。

もうひとつの物語の主人公アーロン・ラルストンにとって、岩塊に片腕を挟まれたままの状態で、生死のギリギリのところで過ごした127hours(約5日間)は、おそらく人生の中で最もゆっくりと、そして容赦なく流れていった時間に思えたことと思う。重さ500sを超える岩塊に右腕を挟まれて身動きができなくなった状態から無傷で脱出することは叶わず、彼は自ら右腕を切断して生還を果たした。その状況はまさに極限といえるものだと思う。人間はできればそんな極限など経験しないにこしたことはないとは思うのだけど、そうしてはじめて見えてくることや、悟れること・・・そういうことは確かにあるのかもしれない。

アーロンは、岩壁に捕らわれているさなか、身体と精神が弱っていくにつれて幾度もトランスを経験し、時間と場所を越えて、まさかこんなところに自分が動けずにいることなど知る由もないであろう、大切な家族や友人達とふれあい、自分の人生がたくさんの未完を抱えたまま終わりに至るかもしれないその時に、ひとりの人間として自分が果たして何を望んで生きているのかを見つめることになる。

彼が経験したことは、いわゆる「万が一」の出来事で、誰もが経験せずに済ませたいと思うはずの過酷な経験だ。でも彼はその万が一が自分の身に起きたことを全く残念には思ってはいない。手記(「奇跡の6日間」小学館)の中でアーロンは、「ぼくの人生で起きたこと、いまも起きていることを考えると、ぼくは大変恵まれていると思う」とまで書いている。タイムスリップして過去に戻れたとしても、自分は再びあの岩の裂け目に降りていく・・・彼は生還を果たした後も、あの時の選択を後悔していないし、「結局ぼくは、変わっていない」と言い切っている。そして今もアウトドアマン、登山家として世界の高峰に挑戦しつづけているのだ。

アーロン・ラルストン

もしかしたら、あんな体験をして身体にハンディも背負いながら、再び危険に挑戦しつづけるなんて、愚かだし間違っていると、彼の人生の歩み方に意義を唱える人もいるかもしれないし、そう考えるのはもちろん自由だ。

でも僕はこうも感じる。クリスの場合と同じく、アーロンもあの経験によって、自分についての本来が、何処か別のところにあるのではなく、自分自身の中に初めからあったのだと気付くに至ったのではないだろうか? それだから今でさえ、ハンディを負っていながらも大自然に挑戦し続けるのは、それが自分にとって最も自分らしい姿だと感じる生き方を選んでいるに過ぎないのではないだろうか? 人は、何か外から与えられたものによって豊かになるのではなく、命と与えられた人生の時間を楽しむのに必要なものはすべて元々もっているのかもしれない。

僕はクリスやアーロンが経験したような、命に関わる極限なんていうものに直面したことはないし、多分そんな危険にはこれからも遭わないだろうと思っているが、もっとゆるくて、ごく普通の日常を送っている僕のような者にも、辛いこと、悲しいこと、不愉快なことはいつでも降って湧くことだろうし、もちろん楽しく愉快なことだっていつでも起き得る。でも、そこに正誤の概念を交えてしまったら、僕はきっと幾つもの後悔を抱え込んでしまうことになるのではないだろうか?

自分が経験するものに、正しいとか間違いなんてない・・・。

それがクリスとアーロンの物語から僕が感じることだ。クリストファー・ジェイソン・マッカンドレスは、家族と友人たちから離れてたった独りで人生の最後を迎えた。彼はその過程で、幸福とは、分かち合う人がいてはじめて実感できるものだという結論に達する。その発見は、彼が経験した孤独と飢餓を超えて、彼の人生に意味を付し、価値ある生を生きてきたのだという満足をもたらしたのかもしれない。

うち捨てられたバスを背に微笑むクリストファー・ジェイソン・マッカンドレス


発見された遺体とともにあったカメラに納められたフィルムには、彼の最後の場所となったあのバスを背景に、独りで満ち足りた笑顔を見せるクリスの姿が写っていた。

ここまで、まさか読んでいただいたあなた・・・感謝しますexclamation×2ぴかぴか(新しい)
posted by フランキン at 23:10| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月31日

意識も感情も含めたプロセスのすべてが語られ表現されてはじめて、その体験を知ることに価値が生まれ貴重なものとなる…映画「127Hours」


ダニー・ボイル監督のこの新作映画の元となっている、ユタ州ブルージョンキャニオンで岩石に挟まれた状態から、自ら片腕を切断して奇跡の生還を果たしたアーロン・ラルストンが自身でこの過酷な体験を綴った「奇跡の6日間」 (小学館)を今読んでいるところです。読みながら気付くのは、過酷な状況の中に完全に孤絶し絶望的な時間が過ぎていく中で、ラルストンがその一分一分に自分の目が何を見つめ、どんな音を聴き、何を考え感じていたのか 非常につぶさに記憶しており、彼の人生の中でこの127時間が、おそらく最もゆっくりと、そして濃密に容赦のなく過ぎていった時間なのだろうということです。

アーロン・ラルストン 奇跡の6日間

ラルストンの他には誰ひとり人の姿のない渇いた岩と岩の間(スロットというらしい)に、彼を釘付けにして身動きできなくしてしまった岩石の大きさと重さからして、おそらくその窮地に陥った当初から、自分が生還するためには腕を切らなければならないと気付いていたと思われます。しかし誰にとっても同じだと思いますが、それは自殺するに等しい選択であって、その行為を決定的に実行するまでには多くの逡巡があったことを手記から感じ取れます。そうして幾日かを辛うじて過ごしながら、彼は生き残ることに賭けた決定的な行為、自らの腕の切断を実行することになります。そこに至るまでのプロセスで揺れる彼の想いは切実です。

この映画の描写において、その腕の切断シーンの生々しさがいろいろと物議を醸しているとのことですが、アーロン・ラルストンの体験が意味することを本当に人々に知ってもらうということを、ラルストン本人の言葉(例えば手記や講演など)以外の方法で、つまり映画という形で露出させるということを考えるとすれば、彼自身の手記が読み手に語りかけ強く迫ってくるものを僅かでも歪めたり見落とすことがあっては意味がないと僕は率直に思います。

127hours 127hours

地上に生きている人間たちの中で、いったいどれほどの人が極限というものを体験するのだろう? それはお金や資産や名誉やビジネスなどが絡んだ、人間が作った経済社会という枠の中でのものではなく、本当に明日までは生きられないかもしれない…という、絶望的で選択肢のない状況のことです。もちろん僕は人間は極限なんてものは本当は体験しないにこしたことはないと思っています。しかしたぶん、真の極限状況の中でしか見えないものというのは、本当にあるのでしょう。おそらく、アーロン・ラルストンの体験は、それを知ろうとする者にとっては、もしかすると自分自身の中にもあるかもしれない、人間として持っている内奥の力や可能性、それによって芽生える希望、微かなところから拓ける少しだけ先の未来を垣間見させてくれる、貴重な体験として大いに意味深いものだと思っています。

ただ、体験というものは、特にこのように誰もがおそらく生涯経験しないであろう体験については、一連の出来事の中の特定のシーンだけでは、それを語ることも伝えることも、ましてやそんな極限状況など想像すらし得ない受け手が理解することなど到底叶わないものです。重要な局面でなぜ、どのように、そしてどんなつもりでその決断に至ったのか? その意識も感情も含めたプロセスのすべてが語られ表現されてはじめて、その体験を知ることに価値が生まれ、過酷で二度と繰り返したくはない体験であったとしても、貴重なものと考えられるようになるのだと思います。逆に言えば、極限とその中での人間の有り様を真に伝えたいと思うのであれば、腕の切断シーンも欠かせないプロセスのひとつであり、それをラルストンの記憶のとおりに表現しないなら、はじめからこのような映画は作らないほうが賢明ではないでしょうか。ニュースの中でのダニー・ボイル監督の言葉は、生きるために必要だったラルストンの腕切断を出産に例え、決して目を背けるべきものではないことを強調し、脚本のサイモン・ボーフォイは「アーロンが実際に体験したことを忠実に描く責任があった」と述べています。しんどい映画なのでしょうが、僕はこの描き方で良かったのではないかと考えています。(まだ未見なはずなのに…笑)

ラルストンの手記にまた戻りますが、彼の書いた「奇跡の6日間」は、決して腕の切断から想像されるような、おぞましい体験ばかりが書かれているわけではありません。身動きが封じられたスロットの中で、自分などまったく無き者であるかのように陽が昇りやがて暮れていく…冷え切った暗い岩と岩の間で太陽の光のありがたみを感じ、一滴の水が、一口の食べ物がいかに自分の身体の細胞ひとつひとつにとって大切なものであり、これまで人生を生きてきた自分は生かされていたのだという感謝を呼び起こします。想いは時間や場所を跳び越えて、今この遭難の事実を知る由もないはずの家族や親しかった友人達へと飛び、関わった多くの人たちとのふれあいや未完結なままの為すべきことへの愛情や後悔、そして彼らへのもはや届かない親愛を独りで噛みしめ、再び完全に孤絶した細いスロットの中にいる自分に戻ってくる…。手記のうちの大半は、この極限の中で彼が自分自身の生命と真っ直ぐに向き合いながら廻った内省的な思索の記録です。記憶と意味の残る読書体験をしたいと思われる方なら、読んでみることを僕もお薦めします。

物議がかもされているという127Hoursですが、確かに観客を選ぶ作品といえるかもしれませんね。生理感覚的に血を見ることができないし、したくないという人は、映画館に行く…行かない…についての選択肢が自分にあるのだということを、思い起こしていただきたい映画かもしれません。(ちなみにフランキンは血を見たいわけじゃないです。
そんな映画は他にいくらでもあるけど、別にそういうのを見たいとは思わないです。)

ひらめきこのブログ内の関連記事
サーチ(調べる)サードマン〜アーロン・ラルストン〜ダニーボイルの127hours
サーチ(調べる)極限状況のサードマン現象〜人間という生命の形について未到達の真実の存在を感じ畏怖さえ覚える


サーチ(調べる)ダニー・ボイル監督作品『127 Hours Trailer』
posted by フランキン at 18:34| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「冒険者たち」のマヌーは確かに野沢那智さんだった。

好きを超えて僕が今まで見た中で最も愛する映画は、
小さな頃にテレビで見たフランス映画
「冒険者たち」(Les Aventuriers)です。
その主人公のひとり、「マヌー」を演じていたのが
アラン・ドロンであり、吹き替えはもちろん野沢那智さんでした。



小さな頃、映画をテレビで見ることが多かった自分にとって、
声優は物語と俳優そのものであり、
いつまでも残りつづける映画の記憶を決定づけました。

「冒険者たち」は、もちろん仏語の原板も大好きですが、
野沢那智さんのアラン・ドロンの「マヌー」と、
森山周一郎さんのリノ・バンチュラの「ロラン」の声は、
きっとこれからも僕にとっての「冒険者たち」の記憶となっていくのでしょう。
きっと同じ記憶を持つ人は多いんじゃないかな?

白石冬美さんとの絶妙なペアでの木曜深夜のTBSラジオ番組、
「パック・イン・ミュージック」(水パ)は、
やはり忘れられない思い出です。
ここからちょこっと聴けます。

僕が映画が好きになった機会をたくさん作ってくれた
一時代を築いた声優さんたちの声が、
時とともに次第に聴けなくなっていくのは、やはり寂しい・・・

野沢那智さん、ご冥福をお祈りします。ぴかぴか(新しい)
posted by フランキン at 11:39| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする