2019年03月30日

白石冬美さんの声の記憶

夜更けにラジオから聴こえてくる声に気持ちを楽にさせられたことって、経験したことのある人は決して少なくないと思ってる。

少年の頃の一時期に毎週金曜日の深夜に聴いていたTBSラジオのパックインミュージックのパーソナリティ、ナッチャンチャコチャンこと野沢那智さん&白石冬美さんのトークは、僕にそんな意味を持っていた。

大人の日常がそうなのと変わらず、年端のいかない少年少女にだってそれなりにいろいろある。いろいろある中で自分が昨日と同じく今日だってそしてできれば明日だって元気で楽しくいられたらどんなにいいか・・・なんてことは分かっているのだけど、ときどき乗り越えなきゃいけない気持ちを持て余したり、しばらくのあいだ自分を誤魔化したり見直してみたり、そんなことが必要な夜だっていくつもあった。


(シェアした1971年の「金曜パック」OnAir音源はあまりに貴重!ふたりのトークはもちろん流れる音楽にもCMに至るまで、あまりに宝モノ過ぎる!)

ラジオから聴こえてくる声というのは、聴いている大勢に向けてのものであるのは分かってるのだけれど、深夜に生放送のラジオトークを聴いていると、それでも「わたし」に向けて語り掛けられているように思えていたから今振り返ってみると不思議だ。語られた話題にしろかけられた音楽にしろ、それは「わたし」とスタジオでいま喋っているふたりとの共有であって、それをハブとして繋がっていた同じ楽しみを分かり合える誰だか知らないけど多分直接会ったなら友達になれたかもしれない彼ら彼女らとの交友そのものだったのだと思う。

アラン・ドロンの声の吹き替えでも知られていたナッチャンこと野沢那智さんが9年ほど前に亡くなって、そして今日はチャコチャンこと白石冬美さんが亡くなったというニュースが入ってきた。

彼女の声からのイメージは人によりいろいろかもですが、僕の場合はアメリカのTVドラマ《funny face》邦題「すてきなサンディー」の明るくキュートなサンディ・ダンカンでした。



ずいぶん救われた気がする・・・白石冬美さんの声には。。。

天国でナッチャンと再会して「金曜パック」、また始めていて欲しいな・・・どうぞ安らかに。。。
posted by フランキン at 18:16| 静岡 ☀| Comment(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愚かさも汚さも悲しさや辛さも嬉しさや幸せと同じように歌って語れる人

公私において70年代のピカレスクなキャラそのものを地でいっていたようにも感じていたショーケンが亡くなったなんていう、ちょっとショックなニュースが飛び込んできました。

今や過ぎて行こうとする平成の時代って、音楽にしても演劇にしてもどことなくキレイに誰も傷つけず傷つけられず、人の生き様には現につきものの筈のネガティヴさを過度に敬遠しながら造られ表現されることが多かったように僕には思えて、健全であることばかりが使命であるかのようにもてはやされているような違和感をいつも否めずにいました。

恋愛や友情、家族や親子の関係などのプライベートな側面も含めて、社会で生きていくさい時に直面する自分自身の愚かさや避けられずに招いてしまった失敗や汚れ、オマケのように付いてくる悲しみや辛さや困った結果などは、必ずしもすべてが嫌忌すべきものとは限らないし、ましてや誰かを傷付けないことを意識するあまり、それらがまるで存在しないかのように注意深く目を背けながら自他の健全な面やキレイな面ばかりを殊更に重視して触れていくのが表現の決まりごとになってしまっているようで、其処にこそ逆に病いを感じてしまうのです。

ショーケンこと萩原健一さんが演じた映像の中の人物像は、いつだってとてもストレートに人間の愚かさや弱さや汚さを隠さずに見せてくれていたように思います。「傷だらけの天使」のOPでは新聞紙を襟首に挟んで前掛けがわりにし、コンビーフやトマトにかぶり付きながら前歯でフタを開けた牛乳瓶からがぶ飲みし、「太陽にほえろ」で演じた速水刑事(マカロニ)は、独り公園で立ち小便の後の振り返りざまを暴漢にナイフで刺され呆気なく死亡する・・・キレイでも健全でも何でもないのだけれど、でも其処には生身で生きていく者の逞しさやしぶとさ、それから正直さみたいなものを感じるのです。



だから今夜は僕にとって、ピカレスクというワードは=ショーケンです。

バブルの崩壊と共に始まり、幾つもの病的事件や頻発する大災害に見舞われつづけ、誰もがこれ以上傷付かない傷付けないまま何とかして時代を乗り切ろうとしているようにも僕には思える平成が今や過ぎ去ろうとしています。

ショーケンがいなくなったという事実が、オイ、もっと正直に生きろよと、何だか顎で促されたような感触で僕の想いに沁みてきます。人間にはバランスが必要だなと思う・・・もう少し自分を鍛えないとな、愚かさも汚さも悲しさや辛さも、嬉しさや幸せと同じように歌ったり語ったり、それって昭和から平成を経て、これから先へと進みながら生きていく誰にとっても、取り戻すべき大事なバランスなんじゃないのかな?

あ、これって、かつての歌謡曲が持っていた特性と通じる感覚ですね。歌は世に連れ世は歌に連れ、酸いも甘いもどれだって全部自分自身。

ショーケン、やすらかに。。。
posted by フランキン at 16:52| 静岡 ☀| Comment(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月15日

一日おくれの「大恋愛」

昨日の夜に放送されたドラマ「大恋愛〜僕を忘れる君と」の最終回の録画を、つい先ほど観ました。なんだかもう今日が終わってしまったかのような虚脱感に見舞われて、今夜の夜勤での時間が思いやられます。

思ったこと・・・

誰かと共に在るということの本当の喜びは、たぶん、お互いがしっかり向き合ってしっかり見えているということ以上に、100%叶わずとも、その人は自分と同じものを見てる、同じものを聴いている、同じことを感じている・・・というような、不確かさを伴いながらも抱く「確信」の強さに在るのかもしれない・・・若年性アルツハイマーを患っているヒロインの尚(戸田恵梨香)と、彼女を愛しむ小説家の真司(ムロツヨシ)のふたりの10年間を見つめながら思いました。

人と人との関わりについて考える時、ずっと前から、「肩を並べる」という言葉と、それが意味する風景がとても好きでした。同じものを見、聴き、感じていたという想いは、そばにその人がいなくなり互いが見えなくなっても、肩を並べているに等しく、人と人をしっかりと結びつけてくれるのではないかな。

だから、ヒロインの尚が真司の前に現れ、ふたりが結ばれていく過程の中で経てきた幾つもの「あの時」や「この時」が、病に侵されていく尚の記憶から少しずつ、でも確実に零れ落ちていく様子にふたりが気づく度、その残酷さに何度も胸がつまされました。

もうひとつ思うのは、笑顔って、すごく大切なこと、そして笑顔の人ってなんて素敵なんだろう!ということ。

避けられない悲しみの予想がいつも付きまとって拭い去れないストーリーなのだけど、でもなぜだかこのドラマには救われる気がしてきました。それは間違いなく、ヒロイン尚の笑顔と、何度も辛い場面を経験しながら、幾度も彼女の笑顔を取り戻した、尚を愛しく思う真司の醸す一生懸命さのおかげだと思うのです。このドラマの真ん中には、いつでも笑顔の尚がいて、彼女の笑顔を見るために、このドラマを毎週観ていたような気がします。

大切だな、と思うこと・・・肩を並べるということ、笑顔をなくさないということ、その為だけに日々を生きる・・・ということ。

ああ、たまらなくいい物語だったなぁ〜。年甲斐もなく、ちょっとロス気味なのだけど、でもなんだかありがとうの気持ちがいっぱいの僕なのでした。(ああ〜ヤバ・・・!)
posted by フランキン at 16:43| 静岡 ☀| Comment(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月13日

Solaris ソラリス

昨日観てきたばかりの映画「メッセージ」に触発されて思い出した別の物語についての記憶から・・・すみません、長文です。^^
ソラリス(Solaris)・・・という名詞というか言葉というか、詩的なその音の響きも、それに付されて語られるスタニスワフ・レム(ポーランドの作家1921〜2006)創作による物語の、理知と心に働きかけてくる存在感も共に大好きです。
自分の理解の及ばないものや受容不可能に見える状況に遭遇した時、その理解の尺度が相変わらず自身の経験と観点から離れられないのが大抵の人間の現実であり、この世界の様々な事象に重なって現れ出る人間社会の限界でもあります。
異質なものに相対した時に、その存在や状況から身を守らなければ自らが損なわれる・・・世界はそういった恐れにあふれているような気がしてなりません。そして何かを異質だと感じた時点で、同じくそれを異質だと認め合う関係にある者たち同士で互いに頷き合い、理解し辛い(あるいはしたくない)という以外に特別な共通認識もないまま、異質であること=無関係な存在、場合によっては排除すべき敵であるかのように見なしてしまうことへと、比較的安易に流れていってしまうこと、有りがちではないかと思うのです。
映画「メッセージ」を観て思い出したのが、中学生の頃に手にしたスタニスワフ・レムが書いた「ソラリスの陽のもとに」という小説、また、その映画化作品(タルコフスキー[1972]とソダーバーグ[2003])による二作品)をのちに鑑賞した時に抱いたリセット感覚でした。
続きを読む
posted by フランキン at 10:38| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

映画「メッセージ」・・・あなたの人生の物語

小さなシアターで一日に一回だけの上映・・・10人にも充たない観客とともに固唾を飲んで見つめたスクリーンに映し出された映像とストーリーは、かつて一度は出会いながらも既に記憶の彼方に埋もれてしまっていた物語との、初めての体験的邂逅を実現するものでした。作品の日本公開タイトルは「メッセージ」原題は“Arrival”・・・テッド・チャン原作の小説「あなたの人生の物語」(原題 “Story of Your Life” )を映像化した物語です。

517PHxRljSL.jpg

この物語、小説にしても映画にしても、誰かの解説や感想などは無縁のままで体験してもらいたい、そしてその後に観た者、読んだ者同士で思うがままに語り合ってみたい・・・そう思わずにはいられない作品です。なのでこの日記にも僕なりの感想めいたものは書きません。

・・・とか言いながら、でもひとつだけ。映画を観ながら、たまたま読んでいた全く無関係な小説の中にあった禅の語「滴水適凍」という言葉がなぜか想起されました。その語についてふれた小説中の鎌倉の古寺の住職によれば、「水が一滴垂れると、すぐさま凍る。また、滴ると、一瞬のうちに凍る。刹那刹那、瞬間瞬間。間髪を容れずに、十全にそのものの本分を生き切る」・・・ということだそうな。

その後の考え方や物ごとの受け止め方や世界観にさえ影響を及ぼしそうな働きかけにあふれた小説や映画とのめぐり合いというのは、時に本当にあるものです。今日の映画はまさにそのひとつでした。

posted by フランキン at 23:38| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

ソロモンの偽証 後篇・裁判

4/11に公開されたばかりの映画、「ソロモンの偽証 後篇・裁判」を見てきました。以下はネタバレは含みませんが、未見の方にはちょっと興醒めにつながることもなり得る日記ですので、どうぞご注意を。
宮部みやきの原作小説は、聖典並みに分厚い単行本全3冊 計1500ページを超える超大作で、それでもほとんど一気読みだったあの小説がどんな風に映画作品として再編され創られたのか、とても気になっていました。
ひと月早く公開された「前篇・事件」を見終えた時点では、原作とは少々異なる脚色やキャラクターの造形についての変更などは、あの大作をまとめ上げるには致し方ないかなと思える程度に思え、むしろ映像化のためのアイディアのようにも感じられて、原作に思いっきり夢中にさせられた読者のひとりである僕から見ても、後篇への期待も高まるなかなかの仕上がり・・・そんな風に思っていました。

が、しかし・・・あくまで原作に心酔した僕個人の印象ですが、この「後篇・裁判」・・・残念ながら、失速です。

まず、裁判とタイトルされた後篇であるにもかかわらず、そのタイトルとは裏腹に、裁判劇として成功していない・・・というのは少し優しい言い方で、脚本と演出が、肝心の裁判そのものに殆ど重きを置いていないような印象を受けました。

原作においては、自分たちの学校生活を激しく揺さぶったクラスメートの死亡事件と、それに伴って発生した無責任で心無いマスコミの攻勢、事件の波紋から学校を守り生徒たちを守るという点においてそれぞれに異なる信念を抱く教師たちの不一致と父兄たちの思惑、騒動を終息させようとするばかりで真実を追求しようとしない大人たちへの不信と疎外感に晒された城東第三中学校2年A組(死亡した生徒のクラス)の生徒たちをはじめ、自分たちで真実を明らかにしようと悩みに悩み、そして決意のうちに立ち上がった生徒たちが、空白となった学校生活と友達同士の信頼を取り戻すために役割を分担しながら懸命になって開廷する学校内裁判での攻防が迫真のものとして描かれていました。中学生による模擬的な裁判であるにしても、その展開は大人も固唾をのんで見守りたくなるほど鋭く真剣なものとなり、それだけに、生徒たちが心に受けた傷の深さ反映されていたように思います。

映画と原作は必ずしも同じではないことは十分わかっているつもりですが、映画の「前篇・事件」の成功でいやがおうにも期待が高められた学校内裁判が、「後篇・裁判」では今ひとつ盛り上がりに欠けた、ダラリとした展開になってしまったのが残念でなりません。裁判劇に不可欠な事実・真実を間に置いての検察と弁護側の応酬が全くなく、せっかく証人として証言台に立っている人物が、何を立証するための尋問を受けているのかも曖昧なまま進んでいく裁判描写に、違和感を覚えました。

思うに映画の製作者の意図するところは、観客にいわゆる感動を与えたいというところに集中していて、それゆえにラストに明かされる真実のみを重視し、そこに至るまでのプロセス、つまりは物語そのものを結果的に疎かにしてしまった・・・というところでしょうか。



ただ、あえて演技経験のある少年少女俳優を用いず、全国10000人の中学生が参加したというオーディションを経てキャスティングされた少年少女たちについては、その完成度についてのバラつきは否めないものの、主人公の藤野涼子をはじめ主要な登場人物たちについては、それもやはり「前篇・事件」の中が多いのですが、「おっ!」と思わせられるほどに冴えた演技場面にも遭遇できたことも事実です。

それだけに、彼女たちのせっかくの頑張りが、後篇の不完全燃焼的な脚本と演出により、十分に生かされ切らなかったような印象が、この物語を読み、観ることを愛する読者・観客のひとりとして大変残念に思います。
それでも最後にひとこと・・・観る価値はあります。いえ、観て欲しいです。そして印象&感想は、人それぞれです。
posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

風に立つライオン

小説や映画のPRなどで使われる「感動」という言葉が働きかけてくるものがあまり好きではなくて、「感動の」・・・とか、「泣ける・・・」などと言葉が付されている作品に出会うと何となく後回しにしてしまうか完全に無視してしまう傾向が僕にはあります。

もちろん、PRの意味で付されている感動という言葉と作品の中身そのものとは何の関係もないわけで、僕自身の勝手な選り好みからせっかく良い作品に出会う機会だったのに、それを遠ざけて損をしてしまう・・・僕にはそういうことがきっと幾つもあったのだろうと思います。

「風に立つライオン」は、さだまさしさんの歌う同じタイトルの曲が大好きだったこともあり、あの歌の中の人物と風景がどんな感じに物語として映像化されたのか興味がありました。なので今日、あ、もう昨日(4/1映画の日^^)ですが、観に行きました。

さだまさしさんの歌には、実際にアフリカで診療に携わった実在のモデルとなる医師がいたということはこれまでも聴いたことがありましたが、でもだからといってこの映画、元となる歌と同様に決してドキュメンタリー的なものとはならずに、主人公となる医師と親しい関係にある数人の人々のモノローグからなる極めてリアルな(よい意味での)寓話のような印象を抱きました。

きっと同じような経緯で、そして同じような環境と現実の中に自らの人生を見つけ歩んでいるであろう幾人もの人々の経験・・・物語というのは、強いて言えばそういった幾つもの人生の統合された表現のようなものであって、だからこそそれに接した時に、異なる多くの人々が自分自身の中に重なり合う部分を見出し、心を動かすのだろうと思います。感動というのは、きっとその時にこそはじめて見る人読む人の中に芽生え、その人自身の人生の風景とともに命を持つに至るのだと思います。

僕はアフリカに行ったこともなければ、過酷な環境の中で命を懸けた仕事をしたこともありません。でも、この映画の中に登場した主人公の医師、航一郎(大沢たかお)、看護師のワカコ(石原さとみ)、離島医療の道を選んだ主人公の恋人、貴子(真木よう子)が物語の中で浮かべた表情の幾つかは、まるで僕自身のアルバムの中の写真に写る人物のように心に残ります。映像と僕の想像力との狭間で、きっと彼らの生き方やありさまの幾つかが僕の中の何かと共振したからなのだろうと思います。

ひとつの出来事があって、つながりの有る無しに関わらず、その出来事が起きたが故に人生が動かされる・・・立つ位置によって、見つめる方向によって物語は幾通りにもなり、そのすべてに重なり合う襞がある。個人の人生も、この世界も、そうやって創られていくのだろうと感じました。
さだまさしさんの詞のように、最高潮に達して歌い上げられるような感動・・・というよりも、憶えておきたい人たちの記憶・・・そんな風に思える幾人かの人々・・・映画や小説が思い出になり得るという、僕にとっては久しぶりの感覚でした。

感動というものは、誰かにより前もって約束される必要もなく、自ら期待する必要もさらさらなく、こうやってささやかに浸透してきては心にふれてくるだけで、僕にはもうそれで十分です。曲は「風に立つライオン」・・・さだまさし。
posted by フランキン at 04:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

UNO 「そしてインカは・・・」

「世界最古の洞窟壁画〜忘れられた夢の記憶」というヴェルナー・ヘルツォーグのドキュメンタリー映画を見た時に、フランスのショーヴェ洞窟とその中に遺る3万2千年前の人類が洞窟の内壁に描いたという幾つもの絵画が醸す不思議な臨場感にのみ込まれて、心惹かれたまま数日間を過ごしたのは今年の1月のことでした。最近、雑誌「考える人」の中に、その洞窟と映画にふれて文化人類学者の今福龍太氏が書いた記事の中に、その時に僕が感じかつ僕の拙い表現では表すことなど到底叶わなかった想いと印象が見事に書き表されている文章を読んで再び無性に感動してしまったのですが、その中にあった言葉が「人類の最も古い記憶のアーカイヴ」というものでした。

なんでこんなことを書いているのかというと、昨日(8/8木)の午後のラジオ「ノアノア」に電話ゲストとして出演してくれたUNOの新しいアルバム「そしてインカは〜」が誕生する背景となった一連の出来事にも、僕は同じような感覚を覚えるからなんです。2009年、にっぽん丸での「南米と南洋の楽園クルーズ」での演奏旅行のさなかに立ち寄ったペルーのクスコの遺跡でUNOのふたりが体験した出来事とそれによって生じたイメージの連鎖と作曲衝動は、一種の古い記憶のアーカイブスを開いて再現するに等しい出来事だったのではないか?・・・秋にリリースが予定されているUNOのニューミニアルバム「そしてインカは〜」の全曲を聴いて、僕はそんな風に思うのです。今回のノアノアでは、作曲&ピアノの大平里美さんのトークを交えながら、リリース直前のこのアルバムをそっくりそのままOnAirしました。ご聴取&メッセージ、ありがとうございました!
posted by フランキン at 19:37| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月06日

飛浩隆の「象られた力」そして「グラン・ヴァカンス」

象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)
読みかけていた飛浩隆の中短編集「象られた力」を今朝がた読み終えました。森の中で目にする樹々の名をいつのまにか自分がすべて知っていることに突然気づいてしまったかのような、彼の小説を読む時に感じさせられるのは、自分自身の内と外の輪郭が少しずつ意味を失くしていきながら、この世界の事物・事象についての認識が拡大していくような実感です。それは物語の中を漂いながら、その世界の独自の視野と自分のリアルな視界とが重なって、ストンと腑に落ちたような通りの良さというか、無かった視力を一瞬で得たかのようでもあり、言ってみれば一種の気づき≠ェ降ってきた瞬間に出会ったような読書感覚です。
グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)
飛浩隆の作品との出会いは長編「グラン・ヴァカンス」・・・訪れる人が絶えて数千年を経た仮想リゾート「数値海岸」(コスタ・デル・ヌメロ)に果てしなく続く平和な日常の中に身を置くAIたちが経験する、世界の崩壊と一夜の闘争を、瑞々しい生体感覚にあふれた表現をもって描いた物語でした。その物語が、映画でも舞台劇でもなく、ダンス作品として再現されるのだとか・・・スケジュールが合わず僕自身は行けないのですが、興味ありです。今頃はきっと開演の間近に控えた頃でしょうか・・・シェアします。
大橋可也&ダンサーズ新作公演「グラン・ヴァカンス」
posted by フランキン at 16:37| 静岡 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

密林の語り部

密林の語り部 (岩波文庫)

この世に生を受けてからのすべての記憶や定義を消し去って、何もかもを白紙の状態に戻してもう一度この世界を見つめることができたなら、すべてはどんな風に見えるのだろう? 最近そんなことを取りとめもなく考えることがあります。伊豆に移住してからの僕の中には、自分の五感が捉える日々の経験を形作っているすべての思い込みを初期化して、世界に流れた時間や時代に左右されない、無理なこととはいえ原型のようなものに触れてみたいというような、どこか願望じみたものがあるのです。

ペルーの作家 、マリオ・バルガス・リョサ(2010年ノーベル文学賞受賞)の小説、「密林の語り部」を昨夜読み終えて、改めてその感覚を強く覚えるとともに、現代の日本といういわゆる先進国と云われる国に住む者として、触れてみたいと思うその原型のようなものからはもはや遠く離れてしまったところに自分はいて、もしそれが出来たと思える瞬間があるとしても、それは単に独りよがりな自己満足に過ぎないのかもしれないという思いにかられ、今更ながらに今の自分の立ち位置を知らされたような気がしました。

続きを読む
posted by フランキン at 03:46| 静岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

ホモ・スピリチュアリスと呼ぶ方がしっくりくる

数日前に、『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』というドキュメンタリー映画を見る機会(DVDでだけど)があったのだけどて、フランスのショーヴェ洞窟の中で発見された、約3万2千年も過去へと遡る太古の人類の画家たちが描いた人類最高の芸術作品を、カメラが初めて捉えて映像として見せてくれた貴重な作品でした。いろいろと考えさせられました。

無学な僕には最新の科学についてなど知らないことや分からないことばかりなのだけど、映画の中である科学者が語った言葉がやけに心に残りました。

地球上の歴史のある時期、人類の幾つかの派が生存を競った頃があり、ホモ・サピエンスが生き残った。それは賢い者≠ニいう意味があるが、私はこの呼び方があまり好きではない。ホモ・スピリチュアリスと呼ぶ方がしっくりくる
(確かこんな感じ)

確かに太古の洞窟の平面ではないデコボコとした壁面にあのように動きのある精密で生命感に富んだリアルな絵が描けたのだとすれば、現代の人間が過去の人類よりも賢い・・・などとは、自信をもって語れなくなる気がします。

世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶 [DVD]
世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶 [DVD]
posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月23日

BEATLESS

BEATLESS

1年ほど前に、近未来を舞台として描かれた「あなたのための物語」という小説で初めて長谷敏司の小説を読みました。読後にしばらくつづいた虚脱状態が僕にとっては新鮮な驚きでもあったことと、彼の物語世界とそこに生きている登場人物たちが読み手の心に分け入ってくる時の説得力のある鮮明な存在感は、とにかく僕にとっては、静かに・・・でもものすごく後をひく♀エ覚だったのを懐かしく思い出します。

またあのような彼の作品を読んでみたい・・・と思っていたところ、発売と同時に書店で見つけ(伊東では珍しい^^)て、思わず手にとってしまったのが、長谷敏司の新刊「BEATLESS」でした。雑誌に連載されていた時(全然知らなかったけど)には、この物語の世界観とキャラクターたちにアニメファンをぐいぐいと惹きつけるようなredjuiceのイラストが挿入されていたらしいのだけど、今回の書籍化は、600ページを優に超える長編の物語世界を、挿絵抜きで純粋に小説として読ませ切ることに拘った、じつに堅牢で美しい装丁の本となっていて、小説を読み始めるという行為が、どこか近未来の世界へと通ずる扉を開いて入っていくような感覚があり、久しぶりにハードカヴァーの書籍(普段は大抵図書館利用^^)を購入して読む≠ニいう経験にワクワクしてしまいました。

既読の「あなたのための物語」は、人間と人工の知性との関係を、病に冒された主人公の女性科学者の死への道程に絡めて描き尽くした壮絶な物語でしたが、この「BEATLESS」も、今からちょうど100年後の世界を舞台にして、人間と、hIe(ヒューマノイド・インターフェイス・エレメンツ)、つまりは社会の中で人間の仕事を多くを肩代わりする人型のアンドロイド、人間が創ったモノとの関係を徹底的に見つめ尽くす物語となっています。BEATLESS公式サイトはこちら 

SFという空想物語の中のことなのですが、「BEATLESS」の舞台となる100年後の社会風景は、なんでもありの荒唐無稽なファンタジー世界というよりも、登場するガジェットも登場人物達が直面している諸問題も、すべてが彼らにとっての100年前にあたる現在の経済社会と、現在に至るまでの僕らにとってのまだそれほど遠く離れてはいない過去へとルーツが繋がっていて、描かれる多くの出来事や現象も今の時代に既にその兆候が現れており、人間の嗜好をより効果的に成就するためにモノがモノによって淘汰され、モノに対して人が心を向けることなくただ消費を際限なくくれ返し、やがてはそれらのモノたちが可能にしてくれている自動化なしでは生きていけないし社会も成り立ち得なくなった未来に、それらのかたち有るモノたちが人間との関わりの中でどんな意味≠持つのか?テーマはものすごく心当たりを感じるものとなっています。

100年後の未来を生きる少年と、ある日突然彼の前に現れた美しい女性のかたち≠したhIe・・・「ヒト」と「モノ」のボーイ・ミーツ・ガール。このシチュエーションだけを見れば、何やらありがちなアニメやライトノベルのようにも感じられてしまいそうですが、さすが長谷敏司・・・「あなたのための物語」で読ませてくれた問題提起の鋭さ、そしてそれを語る際の徹底ぶりは、精密なディテールと見事に映像的(映画的というよりアニメ的)な場面展開を伴って読み手にぐいぐいと迫り、この物語のテーマは読者である僕らの前にいま既にあるのだという、真摯な感覚さえ湧き上がらせてくれます。

僕的には、かなぁ〜り、お薦めの・・・というよりも、大好きな一冊となりました。そしてレイシアには、僕も完全にアナログハックされてしまい、読み終えた今もまだ後をひきまくっています。
posted by フランキン at 11:51| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月08日

映画の中に描かれる不幸が持つ意味・・・映画「ヒミズ」のこと

二日ほど前に、園子温監督の映画、「ヒミズ」をDVDで見ました。園子温監督作品は初体験・・・原作のコミックもこの映画の存在も何も知らないまま、レンタル店に新作として置かれているのに気づいて手に取ったのですが、久々に日本映画を見て激しく揺さぶられました。果たして自分自身がこの映画から何を感じたのか?映画を見終えた時の突き上げるように感じた強い印象が、落ち着く程度にに時間を置いて、少しだけ書き留めておきたいと思いました。

続きを読む
ラベル:ヒミズ 園子温
posted by フランキン at 21:03| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

「冬の華」と健さんとチアリのギター

映画と旅というテーマでの昨日のラジオでもかけた曲ですが、「冬の華」という映画のテーマでそのまんま「冬の華」・・・というギター曲。殺してしまった友人の娘を獄中から仕送りしつつ影ながらその子の成長を見守ってきたのだけど、いざ出所してみると、あれほど会いたかったその娘の前に立つことがどうしてもはばかられる・・・やがて男は再び過去の世界のしがらみに・・・。高倉健さんが寡黙に演じた秀次という男・・・セリフの多くを僕はいまでも諳んじることができるほど好きな映画でした。横浜の夜の路地で季節外れに咲いて雪をかぶってしまった鉢植えの花を秀次がしゃがんで指先で雪をはじいてどけてあげるシーン・・・その花の色は映画のタイトルの「冬の華」の文字の色と同じで、世間にもどって普通の暮らしを夢見てきたにもかかわらず、取り残されていく主人公の心を象徴していたような気がします。少しばかり前の横浜を感じさせてくれる映画ですね。
posted by フランキン at 01:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

遙かなる山の呼び声

明日のラジオが旅と映画・・・っていう感じなのでちょっと思い起こしてたら「遙かなる山の呼び声」の予告編を発見。いい映画だったなぁ〜。映画のタイトルそのものが、「シェーン・カムバック!」で有名なアラン・ラッド主演のパラマウント映画「シェーン」のテーマ曲と同じで、雪をかぶる山々を背景にした雪どけであのジメっと泥ついたワイオミングの開拓村の風景と、高倉健さんが放浪して行き着いた北海道は中標津の風景と重なる。山田洋次監督の「遙かなる・・・」は「シェーン」へのオマージュがたっぷり感じられる映画でもちろん「シェーン」も大好きな貴重な名画だと思うのだけど、僕的にはこの日本版シェーンと言ってもよい「遙かなる・・・」は何度見てもたまらなく好い素晴らしい作品なのだ!!
posted by フランキン at 21:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

風の絵師



ドラマを放送に合わせてリアルタイムに見ることは殆どないのだけれど、DVDで見始めるとどうしても止められなくなります。どうやら僕もネロリもけっこうはまるタイプですね〜夫婦ふたりして。(^^;)

韓流史劇の「イ・サン」の時代と時を重ねて実在した、金弘道(キム・ホンド)と申潤福(シン・ユンボク)というふたりの天才絵師の運命を描いた「風の絵師」というドラマがあまりに素晴らしいです。(まだ半分も見てないんですけどね・・・^^)「イ・サン」にも登場した図画署(トファソ)の風景、そしてそこに生きるふたりの実像についての大胆な仮説を元に、今に残された幾つもの絵画に秘められた当時の人々の息吹・・・それらを描いたふたりの画家と、ドラマ「イ・サン」にも描かれていた当時の朝廷内での政治的な駆け引きも交えながら、じつに繊細で優しさを感じる映像表現と起伏に富んだ魅力的な脚本と音楽ですっかり心を捉えられてしまいました。(もう何年も前の作品なんだけどね〜)

「イ・サン」を見た人は是非観てみるべし!という作品ですね。チョ・ソンモが歌うこの「風の歌という曲も、たいへん印象深いです。
posted by フランキン at 22:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月07日

転落少女

転落少女と36の必読書(上)
転落少女と36の必読書(上)
まだ読み始めたばかりですが、この本がやけにおもしろいのです。著者は30代半ばの女性、物語の主人公ブルー・ヴァン・ミアは高校生の少女。10代の少女ながら古今の文学や映画に精通したブルーを語り手として展開する極めて知的でミステリアスな物語は、その文章の至るところで、ブルーが目にしていること、感じていることの諸々が既に彼女が読み終え精通している無数の書物や映画の中のフレーズに結びつけられてイメージ化されつつ、少女らしい正直さと軽やかなアイロニーを伴って表現されていく・・・それがじつに小気味良くてユーモラスな文章になっていて、著者の知性と感性の瑞々しさを感じます。

ブルーは自分の置かれた状況にトギマギしたりドキドキしたりしながらも、自身のうちに蓄積された言葉の数々を「当てはめる」ことのできる側面を見出し、常に客観的でちょっと醒めた部分をもって語ってくれます。

今経験している事柄を既に自分が知っている事柄や知識に結びつけて再構築し、自分との関係性をより確かなものへと変換しながら、それらを経験として自分自身の認識に落とし込んでいく・・・そうすると、誰だって自分の物語を表現できるようになっていくのかもしれませんね。「本をつくれば限りなし」・・・というのはバイブルの中の言葉ですが、新しさや流行に振り回されず、その限りない本との出会いをどれだけ経験できているのか・・・?「読む」という行為というか習慣が、どれだけその人を豊かにしてくれるものなのか・・・そんなことを感じさせてくれる一冊(上・下だから二冊か^^)先が楽しみ・・・(^^;)
posted by フランキン at 21:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月01日

エンドロールが終わるとともに思わず拍手をしている自分がいた・・・映画「ヒアアフター」

久しぶりに劇場に行って見た映画は、
クリント・イーストウッド監督の最新作、
ヒアアフターでした。

ヒア アフター [DVD]

命を持ち、人生のさなかにいるという経験・・・
それでもいつか終わりが訪れることを知っている。
その向こうには、はたして何があるのだろうか?
何かがあるのだとすれば、世を去った人たちは
今どんな経験に迎えられているのだろうか?
生きているからこそ誰もが必ず想いをはせる問い・・・

人は答えを求める。

でも、すべてを知ることが
必ずしも必要なわけではないのだとも思います。
おぼろげであってもそれで充分なのかもしれない・・・。
この映画も分からないことをそのまま分からないものとして描く、
そんな慎みをもって創られています。

それでも説得力のある優しい示唆のようなものが、
シンプルに・・・働きかけるように・・落ちてくるように・・・
そうやって静かに悟性に入り込んできて
ふさわしい場所に人を落ち着かせてくれる。

この後(Hereafter)・・・
確かめ得ないことだけど、ひとりひとりの中で、
その先に待っているかもしれない経験を
「察っして」「受け止める」ことができるなら、
いま生きている人生も、また変わってくるかもしれない。
そんな風に思いました。



とにかく今までに見たことのないタイプの映画・・・
どんな娯楽作品のカテゴリーにも分けきれない作品・・・
この作品でクリント・イーストウッドは、
これまでにない特異な位置を占める映画を見せてくれたと思います。

見る人によっては苦手に感じられかねない・・・
つまりは映画への反応を二分するかもしれず、
(ひいては興行へのリスクを増やし、)
扱い方によってはヒステリックな批判や嘲笑をも招くかもしれない、
生と、死、そしてその後への問い・・・というテーマ。

でもこの映画・・・そんな重いテーマに触れながら、
少しも大上段に振りかぶらず、
登場する人物の心象を静かに描きながら、
食べること、眠ることなどの日常の風景と同じく、
生と死について考えることも
ごく自然なこと
なのだと語りかけてくれます。
そして作り手の真摯さがまっすぐに伝わってきます。
それを強く感じるからなのでしょう。
作り手の真摯さと一歩踏み込んだようなこの作品を創った
クリントに応えるかのように、
見る側の僕も襟を正してスクリーンを見つめたような気がします。

クリントの映画の変遷を振り返れば
この映画はあまりに異色だと思う。
見終わった直後に僕が強く感じるのは、
きっとこの映画は、
老境を迎えたクリント・イーストウッドの
今の心境、境地そのものなのではないか・・・?

・・・ということ。
それは全編にながれる
クリント自身が作曲によるピアノの旋律と同じく、
渇いたところに水が沁み込むように
僕に生気をもたらしてくれました。
すばらしかった。

エンドロールが終わるとともに、
思わずひとり拍手をしている自分がいました。
posted by フランキン at 19:10| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月03日

3.13「地球交響曲第七番」伊豆上映会〜人、生命、地、そして伊豆との邂逅

長文です・・・よろしければ・・・というより、
是非ご辛抱いただき、この日記の想いにおつきあいください。

ある日ネロリとともに、「伊豆にしよっか・・・」と心が動き、
ほとんど衝動的に移転を決めてこの伊豆に移り住んでから
今年で8年目になります。

横浜にいたころから、
旅という形でしばしば訪れていた伊豆・・・
今いる伊東市は、より南へ、そして西伊豆へと向かう際の
それまでは旅の途中の通過点のような形で
たいていは通り過ぎる街でした。
首都圏にも比較的出て行きやすい伊豆・・・ということで、
この街を選んだ僕らふたり・・ちょうど今頃の冬の季節でした。

まだ見ていない・・・知らない場所や歴史はたくさんある・・・
でも伊豆高原に住むようになって
シンプルに気付くことをあえてひとつ挙げるてみると、
横浜にいた頃には考えられないことですが、
夜眠る時にカーテンを引かずに眠る
ということかもしれません。

太陽・・・空・・・海・・・日が暮れて・・・やがて星が見えるようになる。

陽が沈み、空が暗く深い蒼に染まり、星々が見え始めると、
こんなにたくさん星ってあったんだ!・・・と、
しばしジッと見つめてしまいます。
やがて月が昇ると、窓から見える海にその光が映り、
海面がいつのまにか月面に変わったように銀色の光りを帯びる・・・

満天の星・・・月の光で海が月面のようになる。

時にはその銀の広がりの中に
小さな明かりを灯して夜間に漁をする船が
シルエットとして浮かび上がります。

陽が昇り・・・地も海も再び温められる太陽と月、星の動き・・・大気の動き・・・風景のゆらぎ・・・

いつのまにか眠りにとりこまれ、
そして太陽が昇るとともにその熱を伴う朝陽を顔に受け、
その暖かさにちょうど土から芽を出すようにして
朝の気配に自然と目が覚める・・・

たった一枚の布でできたカーテンという隔てを忘れるだけで、
自然は窓から親しく入り込んできて
横になったままの僕らを仲間として受け入れてくれます。

今朝の伊豆新聞
(2011.1.22「伊豆ジオパーク世界認定を目指して」)を見ると、
伊豆半島は元々はもっと南の海に位置した
火山島が地殻変動で北上
し、
それが本土と接触して半島という形を成した・・・
その証拠が古い地層から幾つも見つかっているのだと
書かれていました。

2011年1月22日伊豆新聞記事 ←クリックすると拡大されます。
2011年1月22日伊豆新聞記事
「伊豆ジオパーク 南の火山島だったことを証明」


とすると本当にこの伊豆というところは、
現在形作られている地形や風景からは
思いもよらない道筋を歩んできた、
本当に異世界・・・そしてこの地球全体のフラクタルとも言える
特異空間なのかもしれません。


山々と海・・・それぞれを繋いでなだらかに拡がる高原・・・
湖・・・森林・・・彼方に影を見せる伊豆七島・・・
生き物たちや半島という地形と高低差が生む寒さと暖かさ・・・
すべてがそこに在り、さまざまな風景が
とても近い範囲で隣り合っています。

此処に「すべて」が
まさに整えられたかのように「在る」ということ・・・確かに
伊豆半島は地球という星が持つ美しさの特徴を
際立った仕方で集約したジオラマ
であり、
そんな異次元空間の中に伊豆に住む人たちの日常があります。


IZUKEI(スピリチュアル・ジオパーク:伊豆)
IZU Spiritual Geographic Sanctuary by Interloid


日常というのは人を形作ります。
さまざまな思いの変化や成長を促します。
習慣的に見つめるもの・・・
呼応して拓かれる自分の中で新たにされる思い・・・
それらは少しずつ変化を生じさせ、
今までとは異なる精神性を育みます。
伊豆での時間の長い短いに関わらず、
それによって形作られた自分というものが確かにあります。

太陽の光を受け、
間近に感じる月と星の数に時の流れの果てしなさを見、
鳥や虫たちの声におもしろみを覚え、
空と海と山の風景の表情の移ろいに限りの無さを知る・・・
この自然を愛している・・・
そんな自分が確かに在ります。

そしておもしろいことに、
同じ想いを抱いている人同士というのは、
やはり互いの存在に気づき、
そして互いを引き寄せ合うのでしょう。
伊豆半島を形成している自然に
かけがえのないものを感じている人たちがいつしか肩を並べ
その想いの表現として今、一本の素晴らしい映画を、
この伊豆の地で上映
しようとしています。

伊豆に住んでいるごく普通の人たちによって、
2011年3月13日(日)に上映されるその作品は、
地球交響曲第七番
ガイアシンフォニーとも呼ばれ、
既に6作品も作られているこの映画に、
僕もネロリも実は初めて出会いました。
まだ予告編しか見ていない僕とネロリですが、
でも本当に素晴らしいオムニバスドキュメント映画だと思います。

2011年3月13日(日)「地球交響曲第七番」伊豆上映会についての伊豆新聞記事1.19 ←クリックすると拡大されます。
2011年3月13日(日)「地球交響曲第七番」
伊豆上映会についての伊豆新聞記事1.19


この映画にもっと早く出会っていたかった・・
正直いってそう思うのですが、でも多分この今の機会にこそ、
この映画とそれを上映しようと活動する人たちと出会うことが叶い、
今こうして自分の日記でもそのことを書いているというのは、
伊豆に移転してきてから自らの内で起きた様々な変化により、
自分たちの心がよりひらかれ、やはり今がその時ということに
他ならないのだと思っています。

初めからそこに在ったものを再び真っ直ぐに見つめ、
その大きな価値に心を通わせる・・・
そこには人が経験し得る最も根源的な清々しさの源が
あるような気がします。

この番組・・・フランキンのノアノアな風をうけては、
番組のコンセプトにも通じるテーマを掲げたガイアシンフォニーを、
この伊豆の地で上映することを実現しよう活動する伊豆の住人からなる
プラネット伊豆の愛すべき人たちの活動に賛同し、
心より応援いたします。

既にお気づきかと思いますが当ブログの左サイドバーに、
ガイアシンフォニー上映会を成功させるべく作られたサイト
プラネット伊豆へのリンクバナーを貼り付けてあります。
地球交響曲第7番 3/13(日)伊豆高原にて上映! チケット発売中!
どうぞ、このブログにお立ち寄りの際には、
そちらのリンク先サイトも是非ご覧頂きたいと思います。

映画の上映の凡そひと月前となる
2月3日(木)のノアノアには、この上映会の牽引役のひとりで
ガイアシンフォニー全作品を鑑賞しておられる安田かおるさんと、
同じくプラネット伊豆事務局の平山さなえさんをスタジオにお招きし、
上映会に向けた思いを語っていただくことになっています。

番組は電波だけではなく、
サイマルラジオ(ネット生放送)でもOnAirされますので、
この機会に多くの人たちに地球と自然に対しての感謝する気持ちを
共有できたらと思っています。

自分の変化に応じて機会というものは訪れるものですね。
地球交響曲第七番・・・
そしてそれを自分たちと自然との関わりについて
考える機会としようとする人々・・・友人たち・・・

そのすべての巡り合わせに僕もネロリも心より感動し、
感謝の気持ちでいっぱいです。

そしてこの長いブログ記事をここまで読んでくれたあなたにも感謝!!わーい(嬉しい顔)

〜関連記事〜
サーチ(調べる)地球交響曲第七番 伊豆上映会「小さなはじまり/ひとりの女性と一本のモミジの木、そしてガイアをつなぐ物語」
posted by フランキン at 14:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月14日

一年前から待ちつづけた「その街のこども 劇場版」全国ロードショー直前のノアノア生放送。

2011年1月13日(木)のノアノアな風をうけて
よく晴れた熱海にあるCiao!のスタジオから
今日は久しぶりにネロリとふたりだけでお届けした生放送でしたね。

さて、今日は番組の後半で、
皆さんにも是非見ていただきたい一本の映画を紹介しました。
昨年(2010)の1月17日の阪神淡路大震災の記念日の夜
NHKで放映され、それを見た多くの視聴者の心を動かし、
たくさんの再放映の要望に対してついに劇場版映画として再編集され、
今週末1月15日のに全国ロードショーされることになった
その街のこどもです。



サーチ(調べる)映画「その街のこども 劇場版」公式ホームページ
サーチ(調べる)阪神・淡路大震災15年 特集ドラマ「その街のこども」

ひとつのドラマにこんなに心が震えて共感を覚えたのは、
たぶんはじめてのことかもしれません。
1年前にはこのドラマについて、
僕はこのブログにも幾つも記事を書いていました。

神戸出身のある友人も、
その街のこどもを見てたまらない気持ちになり、
やはり何度も繰り返して見たのだそうです。
そして彼は、渡辺あやさんの脚本の素晴らしさを噛みしめつつ、
録画したビデオを見ながら言葉を書き出し、
台詞を再現したノートを僕に送ってきてくれたほどでした。
それほどまでの共感を呼び起こし、
なおかつ他の人とその感覚を共有したいという気持ちにさせる
力を持つ作品でした。

神戸の街に生まれ育ち、それぞれにあの震災の記憶を抱え、
今を生きているひと組の男女が偶然に震災の日の神戸で出会い、
夜の街をひたすら歩きつづける・・・
神戸に住んだことがある人ならば、
「あ、ここ、いつも通ってる!」というように
なじみ深い場所をふたりは歩いて行きます。

ふたりを演じるのは劇中のふたりと同じく、
神戸での震災の記憶を自身でももっている
森山未來さん、佐藤江梨子さん・・・
ふたりの個人的な体験と記憶が脚本にさらなる命を与え、
同じ時を経験した見えないたくさんの人たちの真実を含み、
それを表現しているのだ・・・
と気付きます。

ふたりを取り巻く街の風景・・・そして交わされる言葉・・・
放送の当日の朝に撮影したというドラマの大切なシーン・・・
そこにはリアリティに拘るというよりも、
嘘のない真実をそのまま切り取ったドラマにしたいという
役者さん、スタッフの皆さんの願いと真摯さを感じます。



映画ではテレビ枠の時間の関係で、
ドラマには含められなかったシーンを編入して、
さらに素晴らしいものとなっていることと思います。
是非見ていただきたい映画です。

テーマを歌う阿部芙蓉美さんの歌声にもふれずにはおれません。

聴く人の耳元を通り越して
心の奥にまるで湧き起こるかのように聴こえてくる
・・・
心の振動がそのまま内に入り込んでくるような
彼女のウィスパーヴォイス・・・
ドラマを見終えた時の余韻にたまらない気持ちになったのは、
映像の中に溶け込んだ彼女の歌の力の作用もあったのだと思います。

そんな阿部芙蓉美さんの歌うエンディングテーマは
音楽こちらから

全国で今週末からロードショー
皆様、ぜひこの作品を見逃さないでくださいね。

今回のOnAirでお贈りしたナンバーは

TOTO
 るんるんWhile My Guitar Gently Weeps

新田洋(現 森本英世)
 るんるんみなし児のバラード(1969年、『タイガーマスク』ED)

クロード・チアリ
 るんるん冬の華(1978年、映画『冬の華』テーマ)

新井英一
 るんるん雪に書く恋文(愛し切れなかった)
 (ウラジミール・ヴィソツキィ)

阿部芙蓉美
 るんるん青春と路地


当ブログ内での「その街のこども」についての記事
 
サーチ(調べる)2010年01月30日
それぞれのスピードで、いつかは辿り着くのかも…「その街のこども」再放送を見て
サーチ(調べる)2010年01月25日
もう視聴率なんていらない!
サーチ(調べる)2010年01月19日
「その街のこども」の再放送希望
サーチ(調べる)2010年01月18日
「その街のこども」…一夜明けての覚え書き
サーチ(調べる)2010年01月18日
その街のこども

posted by フランキン at 02:29| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする