2012年01月01日

あけました!!

あけました!!おめでとうの声が冷たい夜気の中であちこちに飛び交ってます。やっぱり元旦っていうのは冷え冷えとした冬だからこその人の温かみの伝わり方みたいのを感じますね。FBのウォールを見ているとなんだかいっそう清々しい気分になってきました。

あらためまして・・・皆様、あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いします!初日の出・・・きれいだろうなぁ〜^^


posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月23日

一枚上手をいく植物たち

中学生の頃に・・・宿題で500種類の植物を採取してレポートさせられたことから、いつのまにか身近な植物の名前をすべて覚えてしまい、あるとき道を歩いていると、自分をとりまくすべての木々や草たちが、突然どれもがそれぞれに名を持った知り合いのように感じられて、目の前にたくさんの知ってる人がいきなり現れたかのような感覚に陥ってしまい、動けなくなった・・・昨日のラジオゲスト、「アロマテラピーの教科書」の著者の和田文緒さんが語ってくれたふしぎな経験・・・いまでも言葉ではうまく説明しきれないのだそうです。

そんな和田先生・・・早朝、まだ他に人の姿がなくて、植物と自分だけになれる時間に、伊豆の植物園をよく訪れているのだそうです。アロマセラピーとの関わり・・・じつは少女の頃からの植物との関わりからはじまったものなのですね。

「植物はすごく戦略的に生きていると思うんです・・・人間より一枚上手」・・・ホント、とても興味深いお話の数々でした。。。このラジオの模様は、後日ブログにアップいたします。(^o^)
posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

伊豆半島はそっくりそのまま地球のフラクタル

水平線に目を向けると、いつも目に入る伊豆七島のシルエットが今日は靄に隠れて見えません。伊豆半島はそれらの島々と同じく、ずっと昔に絶海の孤島だった時があり、長い長い時の流れの中でいつしか列島に接触して半島となったのだと聞きます。ずっと海を移動してきて、他の島々よりもひと足さきにたどり着いて地続きになった・・・目の前まで迫って見える伊豆大島や三角のカタチをした利島のシルエットを遠くに見つめるとき、それは先にをたどり着いた者が順次あとにつづく者たちを肩越しにふり返っているようなものなのかもしれないですね。

そんな伊豆の過去を思い巡らしてみると、そこには島として辿ってきた独自の時間もあるわけで、そう考えると伊豆そのものが個性を持つひとつの世界を形づくってるように感じるんです。だから伊豆半島はそっくりそのまま地球のフラクタルのようなもので、風景のあちこちにこの星のミニチュアのようなものを感じます。自然と湧き上がってくる、いま自分が身を置くべき「住みか」にいる・・・この感覚が好きです。

調和って、じつはとても大切だと思う。人が求める「癒し」・・・というものがもしあるとすれば、それは自分がひとつの存在として、人というこの星の環境に依存して命をつなぐ生き物であることを思い起こし、いま自分を取り巻くこの場所に、肯定されるとまではいかずとも・・・少なくともわたしは否定されていない▼・・という感覚を無理なく抱けるということも、ひとつのカタチなのだろうと思うのです。だから伊豆は、再び訪れたくなる旅先のひとつであり、住みたくなる土地として魅力が絶えない場所となっているのだと日々感じるんですよね。
posted by フランキン at 12:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月16日

未知の更新

自分の理解を超える出来事に出会ったとき、それは理解の広さ深さが更新され、すべてがより明確になる機会なのだと思う。だから僕は目にしていること・・・耳にしていること・・・感じていること・・・それらすべてについて、自分の五感を信頼しつつ、「ああ、そうなんだ」・・・と、まずはそのままただ受け止めつつ今から先の進展を見守ることにする。

僕はまだ、この世界がどんな形をしているのかすべてを知っているわけではない。だから慎重であるとともに謙虚に・・・寛容であるよう心がけたい・・・そうつくづく思う昨日から今日にかけてを経験中。意味不明にも思える書き込み・・・失礼しました。
posted by フランキン at 22:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月02日

急須についたテントウムシ

さすがに12月・・・冬を感じます。昨夜は帰宅してみると、暖をとるためか茶葉を入れたままにしておいた急須に皆に遅れて生まれたらしいテントウムシがついていました。部屋の中でそこが一番温かかったのでしょうね。もうすっかり冷え切った急須にしがみついてる様子はなんとなく「哀れ」を感じました。そういえば・・・古いさだまさしの歌に「晩鐘」という曲があって、その詞の中に「哀れ蚊」という言葉が出てきますが、ライナーノートにはこんなふうに書かれていました。

「季節外れの弱々しい蚊を、古人達は「哀れ蚊」と呼び、手で打ったり、除虫香をたいたり、という事をしなかった、と言います。『粋』などという言葉以前に、我々日本人の生命観を表す、優しい話だと思います。」



こんな時・・・ふと想います。この小さな虫が僕の目に留まったという出来事はあまりに小さな出来事だけど・・・意味はあるのだろうか? あってもなくても・・・降って湧いたようにして生まれたこのテントウムシとの関わりに何やら気持ちの中から引き出されてくるもの柔らかな感覚がある。外は冷たい夜の雨だし・・・テントウムシのために・・・お茶を入れ直なおしてあげたくなりましたが、ほどよい熱をじんわりと発するテレビのスウィッチを入れて、そばに運んであげました。
posted by フランキン at 11:59| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月12日

見えない満月と真夜中の蟹歩き

まだ霧雨が残る深夜・・・
伊東の街中を車で走っていると
ヘッドライトに照らされた路面の
奇妙な動きに気づき車を停めた。

正体を確かめようとて外に出で数歩あとに戻ってみると、
手のひらほどの大きさの甲羅を持つ蟹が数匹・・・
まだ時々車が通る深夜の道を横切っていた。

続きを読む
posted by フランキン at 02:27| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

The Rose

Facebookの友人の誕生日に
この曲をウォールに贈ったのだけど、
聴いていてなんだか自分が励まされる・・・

もう何十回聴いただろうか?
Bette Midlerの歌うThe Rose・・



何処に蒔いたのかも忘れてしまった種だって、
いつかは咲き誇りふと目に留まることだってあるかもしれない。

伊豆に今いるということに意味を感じてた。
此処に来たばかりの頃に、
毎朝太陽の光に目を覚ました頃を忘れないようにしなきゃ。。。
posted by フランキン at 20:21| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

いつか聴こえてきた終わりを迎える葉がたてる音・・・

伊豆高原・・・陽射しが暖かな日でも、
夜には冷えるように感じる季節になってきました。
花らんぷの駐車場に立つ木からも
いつのまにか葉が落ちはじめています。



冬に向かうこれからしばらくの日々で
全部落ちてしまうんですよね。

つい先日の星空の深夜に外に出て空を見ていたのですが、
風がなかったせいなのか
枯葉が地面に落ちる時の音にはじめて気づきました。
夜なので見えなかったのですが、
一枚一枚の葉がたてる最後の音を耳にしたようで
妙に神妙な気分になりました。
posted by フランキン at 10:11| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月19日

To The Morning



秋が深まるとともに確かに夜が長く感じられて
読みかけの本やら何やらにワクワクするためか
ついつい夜更かしをしてしまう。

そのせいか・・・
ここのところ朝が少々きつかったり、
なかなかシャッキリしなかったり・・・

そういう朝には
多分とびっきりの瞬間を幾つも見逃していて、
1日が始まりきっていないような
ボンヤリ感がずっとつきまとう。

ただ目を覚ましたまま朝を迎えるだけでいいのに・・・。
posted by フランキン at 11:11| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月16日

肺呼吸のまま海に潜り、時々丘に上がっては深呼吸するようなFBですみません。

これはFBについての自分の関わり方についてのあくまで個人的なメモです。充分に使いこなしていない僕ですが、とある友人がどんどん流れていくFacebookのウォールに反応しきれていない自分を悩んでいたようなので、そこに思うところをコメントしたものですが、この時間が、自分自身の思いの整理にも少し役立ちました。あくまで使いこなしていない人間の長ぁ〜いつぶやきです。

いろいろと感じるところは共通してますね。ネットに入るということは僕にとって肺呼吸のまま海に潜り続けているようなもの・・・なので定期的に息苦しくなって海面に顔を出し呼吸するようにしてネットから身を遠ざけたりしています。ですからその間に投稿された友人たちの記事は当然気がつかないまま過ぎ去ってしまうこともあります。

基本的に、ネット環境に いつ 入るか?≠ヘネット利用者・・・要するにFacebookやTwitterなどのSNSの各ユーザーの自由≠ナあると考えているのですが、当然その自由は自分以外のすべてのユーザーが(もちろん真っ先に里美さんも)同じように持っているはずなのだと思います。なので初めからすべての投稿を閲覧することは事実上不可能なことですし、自分が書き込む時にも、すべての人に見ていただくことは高望み過ぎること・・・と考えています。なので自分の投稿に何ら反応がいただけなかったとしても、それはそれであり得ることですし、仕方がない、ある意味既にFacebookを利用する上での共通同意事項だとも思っています。Facebook上で大切な友人に出会うことも・・・心に触れる投稿に巡り会って思わずコメントをしたくなるのも、実はすべては基本的に一期一会で、そんな気づいた時の巡り合わせ≠大切にしたいと思っています。

里美さんは優しさとともに強い情熱もお持ちの方なので僕ほどには割り切れず、友人たちの想いや心を本当に大切にして、そのひとつひとつに応えていきたいとお感じになるのでしょうね。確かにそれは、里美さんが音楽を人々にふるまう時と似ています。ライヴでのUNOの音楽の届け方は、本当にひとりひとりの心にふれるもので、だからこそライヴのさなかに自分の心の奥底にあるものを里美さんの紡ぐ音の並びにつながりを感じ、涙を流す人々の姿を多くみることもできるのでしょう。

でも考えてみると、その人々に演奏を聴いていただけたのは、その演奏の場にその人が居てくれたからに他ならない・・・と思います。その場にいない人には里美さんの音楽は届きませんし、逆に里美さんがライヴのステージにいないならば、其処にいかに大勢の人々が集まっていたとしても、やはりその音楽との出会いを人々は経験できません。これはアナログやデジタル、リアルとバーチャル・・・どの世界でも同じ事・・・だと思います。それはとても自然なことだと思いますし、やはりそこには、一期一会に価値を感じるかどうか?という、その人のスタンスが関係しています。

無数の人々が自由に行き交うFacebookのような環境では、ひとりひとりの行為(発言・アクティビティ)のすべてを目にして、そのすべてに応える・・・というのは不可能です。それはちょっと大げさに表現すれば、人間がひとつの生涯でこの世界を味わい尽くすことが出来ないのと同じです。もしそれを望むとすれば、その人はその場にいる∞いない≠選択する自由を失うことになりますし、それを他の人々に期待するとすれば、その人々に強要することにもなってしまいます。

ひとつ昔の格言を思い出しました。「自分にして欲しいと思うことは、他の人にも同じようにしなさい」・・・これは昔から黄金律と呼ばれているものです。しかしこの言葉にはひとつ皮肉な気づきが含まれています。他の人にしてあげたい・・・と思っていることは、もしかしたら「自分がして欲しい」と思っていることの裏返しかもしれない・・・ということです。誰かに何かをする・・・何かを与える・・・という行為はとても尊いものですが、でもその衝動の背後に何があるのか?ということを時々ふり返らないと、どんな気配りも親切も愛情もいつのまにかその対象となる人にとっては重荷にさえなってしまうことだってあり得ます。

Facebookですべての投稿に応えたい・・・お気持ちはとてもよく分かります。でももしかしたらそれは、自分がして欲しいと、心の奥底で望んでいること・・・と言うことも出来るかもしれません。それはすべての人に音楽を届けたい・・・と願うのと似ています。でもそれは不可能ですし、それを望めば自分と他の人々の自由を侵してしまうことにもなりかねません。ネットでの出会いやつながりは、あくまで一期一会なのだと思うこと・・・それは、そこにいる人すべてが楽になる≠アとにつながると思っています。Facebookでの誰かとのやり取りに、その人とのすべての関係性を期待してはなりません。基本的にFacebookは、ウォール(wall)・・・落書きや伝言を貼り付ける壁≠ノ過ぎないと思ってます。目に留まることもあるし、いつのまにか通り過ぎて見過ごしてしまうことだってあります。そして其処には常に、お互い様≠ニいう自由な関係が伴っています。

里美さんの温かな気持ち・・・それは自然なものですし、もしかしたらネット環境を自由に泳ぎ回るには通過しなければならないものなのかもしれません。でも、それはネットだけではなくて、リアルな世界でも殆ど同じです。オビナタさんが、「自分がどのようにすれば、楽しめるのか?」を模索した・・・と仰ってますが、その通りだと思います。「楽しむこと」=「楽になること」・・・重荷を感じずに泳ぎ回ること・・・それを意識してみませんか?そのためには、自分自身の心の中を探り、「いったい自分はなにを此処に期待しているのか(或いはし過ぎているのか)?」・・・ということを確認してみる必要があるかもしれませんね。ネット上での息苦しさは、自分の心の裏がえしという場合がしばしばあると、自分の経験からも思いますし・・・。Facebookは今や勢いよく進化しながらたくさんの人々を巻き込んでいますが、心の何処かに「たかがFB」・・・「所詮はFBなんて」というような醒めた思いも持っていて良いのではと思います。

肺呼吸のまま潜り続けるのはキツイです。どっぷりとネットの海に浸かってエラ呼吸になれない(なれなくてぜんぜんOK)なら、たまには自分を切り離して丘にあがって深呼吸しましょう。そしてその時には、他の人々も別の丘に上がって深呼吸してるかもしれない・・・と、サラリと考えることにしませんか?続きを読む
posted by フランキン at 12:11| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月06日

Anniversary Song



FBの友人が今日は誕生日ということで、
せめて何か曲でも贈りたいなぁ〜と思っていたら、
今日のラジオでかけたEva Cassidyの歌に
とても素敵な曲があったのを思い出しました。

Anniversary Song
この歌詞の中のふたりのように・・・
かけがえのない時間を大切な人と分かち合えたら幸せですね。
歌っているEvaは残念ながらもう故人となってしまいましたが、
彼女の歌声はたぶん・・・
いつまでも何処でずっと流れていることでしょう。
posted by フランキン at 20:11| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月20日

荒ぶる魔神とジャック・ゴデル氏の終わらない憂鬱

このブログ記事は個人的な記録です。
福島第1原発の事故当初から感じていた違和感について、
個人的に書き残しておきたいと思ったゆえの記録です。
ここに書き表すことが正しいと主張するつもりはありません。
これは、ただ僕の中に生じた感覚であり、主観的なものです。

荒ぶる魔神とジャック・ゴデル氏の終わらない憂鬱

1979年3月16日に公開されたアメリカ映画「チャイナシンドローム(The China Syndrome)」は、原子力発電所における深刻な事故が発生した場合、それがどれほどの破局をもたらす恐れがあるのか?強く警告する社会派サスペンス映画でした。現実にこの映画の公開からわずかに12日後に、映画が想定したものと酷似したスリーマイル島原子力発電所事故が発生し、皮肉にも、映画が警告したような事態はいつでも現実のものとして起こり得るのだということが証明されたような形になってしまいました。

続きを読む
posted by フランキン at 02:20| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

伊豆半島というところにどんな物語を見出すのか?

Facebookのページ内で行われた伊豆についてのディスカッションにコメントしたものですが、ずっと最近考えていたことにもつながるので、ブログにも転記しておこうと思います。以下、Facebookのノートより

ちょっと具体的じゃない話になってしまってすみませんが、個人的に最近驚きだったのが、伊豆半島が元々はもっと南方の島だったと聞いたことです。それゆえの特異性をこの半島の地質や動植物たちの生態にも観察できるのだとか・・・。

新しいものを見出すことと同じほど、伊豆の本来(古来)の姿を私たちが良く知り、それを物語として構築できないでしょうか?実は1月に三重の熊野古道を世界遺産にすることに貢献した三石学さんにラジオでインタビューしたのですが、今観光客が絶えないあの熊野古道も、当初は誰も関心を持つことがなかった土と樹と草に覆われた忘れられた道だったのだそうです。それを三石さんとその師てある学者の先生とふたりだけで週末ごとに1日わずか数メートルしか進められない発掘を始め、15年かかってようやく古道が日の目を見ることになったのだそうです。最初は周囲の人たちからも、そんなことしてどうなる・・・と笑われたのだそうですが、次第に姿を現す熊野古道にいにしえよりの歴史の大切さに気づいた人々も作業に加わり、やがて大きなうねりとなって最終的にはユネスコ世界遺産登録・・・という、世界に名だたる場所として知られるようになりました。

熊野の場合、紛れもなく「初めから其処にあったものを再び見出すこと」が世界への飛躍に繋がりました。そして熊野古道の場合、その存在がひとつの地域だけではなく、古代のその参詣道が現在の県を複数にまたがっており、ひとつの風景がまた別の風景へと繋がることにより一連の物語を醸し出しています。そしてそんないにしえ人たちが通ったはずの古道をあたかも歩いているかのような気持ちになる音楽なども、その地を再び愛するようになったアーティストたちの手によって作られ、広く聴かれています。

伊豆半島の場合、他県が決して敵うことのできないような地質的、生態的、精神文化的な歴史があると思います。ただ、これは少し残念なことですが、伊豆に住んでいる人たち自身に「伊豆の良さ」について訊ねても、明快な解答がなかなか示してくれないことが多いようです。今伊豆に生きており、そこで旅人を迎えようとしている僕ら自身が、まずはよく伊豆を「知る」ということ・・・そしてそこからどんな物語を構築し、人々にロマンを感じてもらえる場所としてアピールできるのか?とても大切だと思います。そのためには、知ってるつもり(もちろん詳しい方もいると思いますが)の事柄をもう一度よく知り直し、自らもう一度伊豆を見出し直すことから始める必要があるのだと思います。熊野の場合、古代と今がつながることにより、そこに古代から江戸、現代に至るまで、その古道を歩いた(命懸けで)人々の物語を人々は感じることが出来、昨今のスピリチュアルブームも拍車をかけて世界中から人が集まる様になっています。

もしかしたら、伊豆も同様のことが可能ではないでしょうか?先日の城ヶ崎のスフィア(球体)の記事へのコメントに、「秘境ハンター」という言葉も見られましたが、あながち冗談ではなく、大きなヒントと言えるような気さえしてきます。伊豆半島の中に、発掘(文字通りの意味だけでなく、認識という意味でも)して日の目を浴びせ得るべきどんな物語があり得るのか・・・先ずはよく知ること・・・個人的にはそれをしたいと思っています。あのスフィア同様、時空を越えたような感覚になれるようなもの・・・もしあったら教えてください。ちなみに熊野古道についての番組は、番組ブログにもアップしてありますので、お時間が許す時にどうぞお読みいただけたらと思います。長文失礼!!

当ブログ内の関連記事
サーチ(調べる)初めからそこに在った道〜それを見出すことの価値と喜び〜熊野古道
サーチ(調べる)スフィア(Sphere=球体)・・・城ヶ崎で見つめた宇宙のミニチュア
posted by フランキン at 01:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月22日

物語はしばしば現実に先行して示唆を与える

福島第1原発20キロ圏内が立ち入り禁止警戒区域となる事態。
今起きていることは、2007年新潟中越沖地震での
柏崎刈羽原発事故の際に見た
この映画の現実化だと感じざるを得ない気持ちです。
物語はしばしば現実に先行して示唆を与えます。

4年前ブログに書いた映画の感想記事〜みえない雲
posted by フランキン at 12:24| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月15日

風に舞い始めた桜の花に・・・今年もありがとう

満開も過ぎてそろそろ花びらが風に舞い始めた。
2011年の春・・・震災やら津波やら放射能やら計画停電やら・・・
いろいろあってもやっぱり咲く時には咲く。

桜を見て-るといろんな気持ちが湧いてくる。
花ひらくわずかな日々のために1年間ずっと立ちつづけてる桜から、
今年も元気をもらいました。



車のラジオから流れてるのは、
クーペ&Shifoどっちでも不思議
posted by フランキン at 03:27| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

贈り物はこうして受け継がれて・・・

ギター一本でダン・フォーゲルバーグが歌った曲、
バンドリーダーの贈り物

音楽家だった父親の存在から
自らも音楽を道に据えた生き方を選んだ
ダン・フォーゲルバーグ。(07年没) 


ダンが素晴らしい音楽家として生きた証のようなこの曲・・
こうして贈り物は世代を超えて受け継がれていくんだね。
素晴らしいカヴァーです。


〔バンドリーダーの贈り物〕 ダン・フォーゲルバーグ

 親父は一人っ子で、気性の荒い家具職人の息子だった
 親父は後を継がず別の職につきたかった
 でも親父の胸のうちは誰にも理解してもらえなかった
 親父は家を飛び出し、一人で孤独な路を歩み始めた
 そして俺は親父から才能を譲り受けた
 それは恩返ししようもないもの

 寡黙な音楽家の親父は、自分の運命を呪った
 父は一度兵士になろうとしたが、
 でも音楽を志す気持ちははそうさせなかった
 演奏の訓練で稼ぐようになった
 雷のように響く音色、繊細な指技
 父の職人技を習得するには、何年もかかった

 バンドリーダーだった父は疲れ、
 彼の目は老いてしまった
 だが、父の血は、私の腕の中に流れている
 彼の歌は私の魂の中に在る
 俺の人生なんて、
 親父のもの真似をやってきただけのことだった
 俺は、バンドリーダーの父からしっかり受け継いだよ

 俺の兄弟の生活は違った、 別の呼び出しがあれば
 ある兄弟は、シカゴに行き、 
 別の兄弟はセントポールに出かけた

 そして俺はといえば、
 ホテル泊まりでないときは、
 コロラドに定住している
 自分の選んだ生活をし、それもよくわかってきた
 父の音楽、そしてあなたのロードストーリーに感謝

 俺の時代になったんだ
 好きなことをできるこの自由に感謝する
 ああなたの優しさ、あなたの戦った時代に感謝
 そうだ親父、
 今まで充分愛しているなんて口に出したことはなかったと思う
 俺は、バンドリーダーの父からしっかり受け継いだよ


訳詞は下記ブログから転載させていただきました。
名曲洋楽訳詞隊
posted by フランキン at 13:13| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

福島第1原発事故についての雑感・・・

数日前に、原発事故について感じることを日記にしたばかりですが、
ひらめき原子力に既成の安全なんて存在しない
再びちょこっとだけ日記にします。
いたずらに長いかも・・・

高レベルの放射能に敢えて身を晒し
命を懸けて原子炉に接近して任務を遂行した
消防・自衛隊員たち・・・
そして危険を顧みず任務に赴く父、夫、息子たちを送り出し、
彼らを支持し、無事を願いつつ帰りを待った家族の皆さんにも、
心よりの感謝と敬意を表します。

だからこそ、彼らの為したことが、
続きを読む
posted by フランキン at 21:13| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月15日

原子力に既成の安全なんて存在しない

2007年の新潟中越沖地震の際、
震災の下で柏崎刈羽原発が示した脆弱さに関するニュース挟んで
mixiの日記においても多くの人たちとやり取りしたことを憶えています。
ひらめきデフォルトは「危険」ということだと思う。
(コメント感謝)
当ブログ内への転載は
ひらめきデフォルトは「危険」ということだと思う。
(いただいたコメントは削除)

こと原子力発電に関連しては、
「安全」は既成のものとしては決してあり得ないのだということを
強く印象付けるものでした。

3月11日の東北関東大震災にともなって発生し、
現在進行中の福島第一原発が呈している危機的な状況は、
現在命懸けで現場で対処している職員の懸命な努力にも関わらず、
いっそう深刻な情勢に発展しつつあります。

あの時に感じた懸念は、いま目前に形となって現れています。

ここ数日の間、今起きている事象の報告のみで、
それがポジティブなのかネガティブなのか、
どちらの方向へ向いた現実なのかを敢えて明らかにせず、
国民に冷静な対応を求めながらも、
その冷静さの要となるはずの正確で展望を可とする情報を
あくまで小出し小出しにしか明らかにせず、
かえって不安を助長してきた政府や原子力安全保安院、
メディアの不自然な情報開示の姿勢に強烈な違和感を覚えています。

文字通り、命を賭して現場で働く東電職員、
自衛隊、関係者の人々の働きに敬意を表すとともに、
多くの人々の人生に影響を持つこの事態に対し、
成果をもたらすことに至ることを心から祈っています。
posted by フランキン at 14:01| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月26日

バーチャルな訓練を受けてバーチャルなケアを受ける兵士たち


米軍はもうずいぶん前から
ゲームの影響力についてリアルに捉え、
兵士の訓練の中に取り入れることによって、
軍隊という組織の中で
兵士個人が任務遂行能力の向上を目指し・・・
つまり戦場で遭遇した「敵」を殺害することに対しての
本能的な躊躇いを容易に乗り越え、
人を殺すという行為への敷居を低くすることにより、
兵士=兵器・・・としての効果性を上げることに勉めてきたといいます。

ずいぶん前に報道に接して
以前このブログでも書いたことがありましたね。
サーチ(調べる)本当はリスクを背負ってるんだと思う

実際にゲームを取り入れた結果、「敵」を殺傷することにおいて、
その行動を取ることができるかどうかについて、
第二次大戦当時と比較して
90%以上の飛躍的向上
を図ることができたのだといいます。

今度は逆に戦場でPTSDを抱え込んだ兵士を
トラウマから解放する目的で
帰還兵たちのケアにゲームを・・・ですか・・・
なんとも皮肉な話に思えて仕方がないですね。
 
posted by フランキン at 17:22| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ショパンは「側頭葉てんかん」だった!? 僕らはこの世界を構成するものすべてを感知できているわけではないのかもしれない。


僕は医学の専門家ではないし知識もありません。なので自由に物事を捉えて考えを引き延ばします。なのでブログのこの記事はちょっと突飛な話をしているなと感じられるかもしれません。お許しを・・・。

ショパンはいわゆる側頭葉てんかんだったのかもしれない・・・。もちろんこのニュースが取り挙げている精神医学の専門家たちの推論も絶対に確かなものというわけではありません。既にこの世を去って160年も経つ人物が経験した事柄を、断片的で不完全な情報に基づいて判断(診断)するというのは、不可能とは言えないまでも事実上無理に近いことなのだと思います。しかし、正確な医学データも残っていない偉大な音楽家についての秘められた真実に迫る推論として、非常に興味を惹かれます。

しかしショパンの経験したという幻影の原因が側頭葉てんかんだったかもしれない・・・というこの精神医学者の判断は、側頭葉に起因する何らかの異常により引き起こされた脳内の疾患によるものとの見解を示しているわけですが、僕が最近考えるのは、この側頭葉てんかんなるものによって引き起こされるという特異な視覚的体験は、そのすべてを「疾患」と判断することが本当に真実を指し示したことになるのか?ということです。

人間の脳とその働きについて多くのことが分かってきているとはいえ、人間という生命の形とそれが織りなす営みについては、まだまだ現代の科学が及んでいない未到達の地点があると個人的には思っています。それ故に、側頭葉てんかんの症状を示す(経験している)人物がその見たものを語る際に、そのすべてをそのまま「病の症状」として捉えるべきなのか?正直なところ僕は疑問を抱いています。

少し逸れますが、海洋や山岳、南北両極地等での遭難経験を持つ人々がしばしば極限状況のさなかに遭遇したと語るサードマン現象というものがあります。遭難時の極限の中で自分と仲間の他に第3人目の何者かが現れて生還に導いてくれるという奇怪な体験なのですが、生死を彷徨い意識も薄れゆく中でその何者かは生きるために往くべき方向を示し、諦めるなと力づけてくれる。体験者の多くは、「一体あれは何だったのか・・・?」と不可解に思うと同時に、生還に導いてくれたその何者かを守護的な存在と感じ、その感覚がその後の人生にさえ影響を及ぼすことが多いのだといいます。最近このサードマン現象について、極めて冷静に考察・検証を試みている本(邦訳「奇跡の生還に導く人 極限状況のサードマン現象」著ジョン・ガイガー 新潮社)を読みました。
奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」
その中で、この特異な現象を精神医学の専門家たちが説明を試みるにあたり、やはり側頭葉てんかんというものが登場します。確かに側頭葉にある種の刺激が加わると、自分の身体の位置感覚などにズレが生じ、いわゆる幽体離脱や臨死体験、ドッペルゲンガーなどの話と似たようなものを体験するというのは事実のようですし、側頭葉てんかんを持つ人々が何らかの視覚的な感覚を体験する時に、それは脳内の何らかの異変によって生理的に起きた個有の幻視的感覚なのだと考えるのは確かに筋が通っているようにも感じます。しかしそれだけですべてが説明されているとは、実は僕は思っていないのです。

これらの精神医学の進歩による解説は、一見、神秘体験のような特異な経験が、科学によって打ち消されつつあるように感じさせますが、僕にはむしろその逆で、様々な奇妙な神秘体験(僕個人としては神秘体験を経験したことはありません)や、それに伴って経験者の多くが語る人生を変えるほどまでに強い影響を与えることがある霊的な悟りのような感覚は、脳という高度なシステムを介して、人間が未だ確認することが出来ていない領域への感覚に、生理的に目覚めた時に起きるのではないか?などと考えています。

通常人間は聴覚・視覚・嗅覚・触覚・味覚の五感をもって生きています。もし何らかのアクシデントでそのなかのひとつ・・・例えば「聴覚」が生まれつきない・・・あるいは完全に失われてしまったとします。その人にとっては、自分を取り巻く世界は変わらずに存在しているとしても、その中の耳で聴こえる聴覚的な世界は存在していない(もちろん振動を触覚で感知し音波を捉える感覚を発達させた人はいますが)も同然です。逆に言えば、聴覚を正常に持っている人は、そうではない人が捉え得ない世界の一面を感知し、その世界の聴覚的な構成要素の存在を通常のものとして捉えていると言えます。

また、人間以外の生き物で、人間が有していない感覚を生まれつきもっており、それにより人間とは異なる仕方で世界を認識していると思われる生き物たちがいます。例えば渡り鳥は何万何千キロもの距離を、どの時期にどのルートでどこに向かって飛んで旅をすればよいのかを、何ら教育を受けたわけでなくとも自分の内に心得ており、実際にその距離を旅します。これまで鳥類学者たちにより観察されてきたように、太陽や星の位置などを感知し、その情報を利用して飛行方位を決定しているのだとしても、一度も旅をしたことのない若い鳥たちまでがその知識と感覚をなぜ持っているのか?未だ謎のままです。率直に考えれば、そのように渡りをする鳥たちは、生身の人間とは異なる世界の一面を感知しており、人間が知らない(存在を感知できない)世界の見え方を経験できているのかもしれません。それは人間が持っていない、鳥たちだけが普通のこととして持ってる生理的な機能を通して、人間が感知できない世界の一面を見ているのだと言えないでしょうか。

では、サードマン現象の説明と同じく、「側頭葉てんかん」による脳の誤作動として説明されている様々な特異な経験も、すべてを「病の症状」と捉えてしまって良いのでしょうか?僕個人の考えではありますが、そのようにすべてを脳内の異常によるものと判断し言い切ってしまうには、現代の科学からすればまだ時期尚早であるのと同時に、経験の中にはどうにもそれだけでは説明しきれないものも多くあるのではと思っています。事実、精神医学者の中にも、すべてを脳内の神経作用として捉えるべきだとする学者たちがいる中で、そうとは言い切れず、もしかしたら個人の脳内の閉鎖されたループの中だけではなく、その外で、彼らは本当に何かと接触、経験しているのではないか?と考え、引き続き真実を見極めようとしている学者も少なくないどころか、実は増えてきているとさえ言われています。

話は再びショパンにもどりますが、あの偉大な音楽家は側頭葉てんかんだった・・・。確かにそうだったのかもしれませんし、ただ単なる解釈のひとつでしかないのかもしれません。真実は誰にもわかりません。しかし間違いなく確かなことは、フレデリック・ショパンというひとりの音楽家が160年前まで確かに生きていたということ、そして彼が紡ぎ出した音の並びによって醸される絶妙な旋律は今も世界中で聴かれており、多くの人たちの心を動し、感動を与え、時には涙をさえ浮かべるほどの影響を及ぼしつづけているという事実です。それは尋常なことではなく、ある意味奇跡的なことと言えます。では、彼が見たという幻視幻影、そして入り込んでいったという空想の世界で見つめたこと・・・現代の精神医学者たちが「側頭葉てんかん」の症状であると推測するそれらの体験は、このような現実かつ奇跡的な業績に何らかの影響を与えていたのでしょうか?

そうではなかもしれないし、本当はそうなのかもしれない・・・。やはり真実は靄の中ではありますが、しかし人間がもし何らかのきっかけや訓練、またはある種の状況に置かれることにより、従来の日常では必要とされていなかった脳内のシステムが起動し、それまでは処理できなかった外からの刺激や情報や世界を感知(アクセスする・・・アクセスされる?)できるようになり、それによって人間が創り出すものの質や処理が可能となる情報の量に飛躍的な変化が起こり得ると考えれば、ショパンをはじめ、例えば変人とされなおかつ天才的な能力を示した多くの人々についての説明に、違った視点を添えるものとなるような気がします。
聖なる刻印---脳を変えるスピリチュアル体験
側頭葉で起きていることは、しばしばその人の経験に特異なものを加えることになり、神秘体験として語られることが少なくないようですが、それがその人の人生体験にどのような影響を及ぼすことが考えられるのか・・・大変興味が惹かれます。やはり最近読んだものの中に、幻覚や臨死体験などの神秘的な経験はどのようにして生まれてくるのか?それを何人もの脳神経学者と実際に行われている実験を取材して考察した本(邦訳「聖なる刻印 脳を変えるスピリチュアル体験」著バーバラ・ブラドリー・ハガティ 河出書房)がありました。その中で、神秘体験を経て人生を大きく変化させた人の側頭葉の働きには確かに特徴が見られ、それは測定可能な脳波や脳内物質の分泌となって現れ科学的に観察することができること、そういう意味で、それらの特異な体験は人間の脳に「痕跡」を残す・・・と語られていました。それらの実験に参加した特異な体験を持つ人たちの中にはやはり側頭葉てんかんと診断されている人たちも含まれていました。

彼らが自分の特異な体験の中で見聴きしている有り様は、本当にすべてを「病」と特定しても良いものなのか、先に触れた通り、僕は疑問を持っています。それはちょうど上記の書籍の中でその著者が感じていたことと同じでした。つまり、彼らの語る体験をすべて脳内の閉鎖的なループの中での体験と本当に限定してしまっても良いものなのかどうか、ということです。「聖なる刻印」の中で著者ハガティは、もし何らかの存在が在って、それが人間に何かを示そうとするなら、「脳を使うはずだ」・・・と、多数の取材を通して感じると述べています。この考え方には僕も大変興味深いものを感じます。

人類の歴史の中で、しばしば天才的な能力が誰かによって示され、それによって様々な芸術が生み出され、この世界と宇宙に対する人間の理解と見識を変えてしまうほどの細密また壮大な科学理論や技術が見出されてきました。それらはそれを成し遂げた人間ひとりひとりの大変な努力の上に築き上げられてきた記録です。しかしもしかしたら、その成果の背景には、もっと根源的なひらめき・・・それこそ幻視であったり、神秘的とさえ言えなくもない、脳と何かとの相互作用があったと考えられないでしょうか? 数々の発明を世に送り出し、人類文明に多大な貢献をした、かのエジソンはかつて「天才とは1%のひらめき(霊感)と、99%の努力である」と語ったと言われています。しかし実際にエジソンが言いたかったのは努力の重要性ではなく、1%のひろめきを得ることの大切さであって、それさえあれば無駄な努力はしなくとも良い・・・ということだったのだといいます。エジソンの側頭葉はどんな様相を示していたのでしょうね。

そういえば最近、音楽家のひとりで、コンサートで観客が思わず涙を流してしまうような作曲・演奏をずっと続けている友人と時々話します。時に彼女は精神的にとても不安定で、見ていて心配になることもあります。心療内科や精神科を受診し、脳波を調べたところ、担当の医師が顔色を変えて、その医師の恩師がいる大学病院での精密な検査を薦められたといっていました。しかしその脳波についてのデータを送った先の大学病院の教授から「この人の職業は?」と訊かれ、担当の医師が「音楽家です」と答えたところ、「ならそのままにしておきなさい」と言われ、結局より大きな検査は受けなくてもよくなったのだと言っていました。

彼女は時々不可思議な経験をしています。古代遺跡のある南米の街に旅をした際に、初めて訪れるその街から感じられるものがあまりに悲しく強烈で、その後数週間に渡って熱を出し、浮かび上がる様々なヴィジョンと言葉を曲にせずにはいられず、全部を通してストーリーを成す一連の楽曲を完成させました。そしてその曲が演奏される度に、コンサート会場で涙を流す人たちが必ずいます。もちろんこれらの出来事は、単なる体調不良、精神不安定、普通の創作活動として見ることも出来ます。しかし本当にそう言い切って良いものなのか?疑問を感じています。

僕が考えるのは、人間という生命の形について、未到達の真実というものは確かにあって、もしかしたら友人の音楽家が経験したことも、ショパンが患っていた側頭葉てんかんとされる幻覚についても、サードマン現象も、エジソンが述べた1%のひらめきについても、これから科学が何かを明らかにし、同時にそれはもしかしたら、今までは信じるか信じないかとして語られてきたいわゆるスピリチュアルというものと、明らかになれば受け入れるしかない科学知識とがともに両立し得る時代に繋がっていくのではないかと、少しワクワクしたものを感じています。

ショパンは果たして何を体験したのでしょうか?彼がこの世にいない以上、それを正確に知ることは叶いませんが、このニュースにあるように、様々な特異な体験が脳と結びつけられて語られる時に、人間とそれを取り巻く世界についての未到達の真実の存在を想起させられ、興味は尽きません。
posted by フランキン at 12:17| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。