2013年05月30日

In the early morning rain


伊豆長岡で早い朝を迎え伊豆高原へと帰っていく・・・もうすっかり馴染んだこのドライブの感覚が好きです。「梅雨入りしたとみられる」という気象庁の発表は一昨日のことですが、昨夜遅くまで残っていた雨は朝の訪れとともにまた新しい霧雨となって朝の風景を満たしていました。緑の真ん中を貫きながら中伊豆の道を走る・・・朝の光に浮かび上がる白い霧をまとった山々は、彼方というには身近過ぎるところに垣となって田んぼと民家からなる風景を囲むようにして連なり、道々の風景を箱庭のように感じさせてくれます。まだ空気がひんやりと感じられる梅雨の始まりの朝・・・今朝の雨はこの曲のような感触がありました。In the early morning rain≠Eva Cassidyの歌声で。今日はこの後、午後には熱海でラジオです。雨っぽい曲ばっかり、かけようかなと思っています。^^


posted by フランキン at 10:30| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月24日

満月を見つめるということ



満月というのは気づいた時には既に今日の空に浮かんでいて、観察者である僕をいつでも一歩先んじています。ポッカリと浮かぶ月・・・などと言い表したくなるのは、きっといきなり視界の中心を占めてしまうその唐突なありさまから受ける印象も含んでのことかもしれません。満月というのは限りなく丸いのだけれど、もし予備的な知識(今や常識だとしても)がなければ、僕はその丸い形を「円」として受け止めていたことでしょう。夜が深まるにつれて空がさらに暗くなり月の明るさが更に増してくると、目を細めて見つめる月の表面に印された、古来から無数の人々の想像力を刺激しつづける模様に絵と動きを感じるようになります。幾つもの神話や民話が見出されてきたあの丸い月を円ではなく「球」として見つめるということ・・・今やそんな当たり前も、そこに至るまでにはずいぶんと長い時間の流れと人間の意識の変遷があったのかもしれません。

今夜の満月も、すっかり中天にかかりました。月の光が音を立てるようにして注ぐ伊豆高原で月を見つめる・・・足元の小さな小石や木々の枝葉もそれぞれにくっきりとした影を帯び始め、ちょっと不思議な気分で今夜の空を観察している自分もいつのまにか風景の一部となっているような気がしてきました。

シェアした動画は、ニュージーランドはウェリントンのマウントビクトリア展望台に上がる月のリアルタイムビデオです。人々のシルエットがなんとなく童話的です。こんな風にゆっくりと月に戯れてみるのもいいなぁ〜^^
posted by フランキン at 21:31| 静岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海のない伊豆の道と水のある風景

伊豆長岡から冷川峠を通って伊豆高原へと帰るのですが、エンジンをウァンウァン吹かしつつひと山ふた山と越えながら走る急な登り下りの道の両側には、いつ頃に造られたものなのか古い石垣で囲まれた小ぶりな田んぼが、世代を超えて受け継がれたままの姿で幾つも視界に入ってきては飛び過ぎていきます。朝の太陽を受けて滑らかな光をたたえた田んぼは、山の斜面の木々の様子と共に小さく切り取られた空を映して土色と緑色が混ざり合った鏡のようです。海のない伊豆の道にも、水のある風景≠ェあります。

途中で八幡東≠ニ書いて「はつまひがし」と読む小さなT字交差点があるのですが、此処を通る度にいつものルートから逸れて山の中へと細く分け入っていく道へと進んでいきたくなる誘惑に駆られます。この道はひと月ほど前に一度だけ通ったことがあるのですが、しばらく走っていると車がようやくすれ違える程度の細い道になって、深い森の中をしばらくウネウネと走ることになります。背の高い森の木々の枝をすり抜けてきた太陽の光が木々が作る影とともにフロントグラスをかすめ始めると、森を支配する緑色に慣れた目に陽の光で目薬を点されたような清涼な感触を味わえます。此処でもやはり、海の見えない伊豆の風景の中で水と潤いを感じます。

たまには目的を持たずにいつもの道からドロップアウト・・・ちょっとした好奇心?冒険心?・・・そういうのを満たしてあげるというのも、日々の営みの中で繰り返し生き返るための大切な方法のひとつに感じます。
posted by フランキン at 10:34| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月27日

朝の光に貫かれるということ

見ることもなく過ぎていった満月・・・突然生じた磁場に絡め取られたような夜が解かれて建物の外に出ると、雲ひとつない空には朝の光があふれていて、また今日も世界は変わらずに始まったのだと知る。手のひらを太陽に透かしてみる・・・生きているということは、光に貫かれて色を感じることであり、何もかもが動きを止めず其処に同じく在り続けるさまを日々確認することなのだと、ふと思った。
posted by フランキン at 09:58| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月25日

雨の翌日の伊豆高原・・・風の伝説

一日中降りつづいた昨夜の雨は今朝にはすっかりあがっていて、午前の太陽のやわらかな光にわずかに彩度を増して映える辺りの草木の緑がその名残りをとどめている感じの伊豆高原です。樹々の枝が風にゆれるのに誘われて窓をひらいてみると、小鳥たちが会話する声とともに、ちょっとだけ冷たい空気の流れが入り込んで部屋に広がりながら肌にひんやりと触れてきます。水平線があるはずの遠くに目を向けてみる・・・冬の間ははっきりと見えていたはずの海と空の境い目もこの時季にはぼんやりと霞んでしまうことが多い・・・空と海・・・空色と水色が混じり合い、そこに白色の幾筋もの帯が風に放たれ、視界の端から端までゆるぅ〜くたなびいているようなこの感じは、そのまま春の象徴でもあります。ゆるやかな風と光、そして地と海に吸い込まれていった昨夜の雨の気配・・・今朝の伊豆高原には「風の伝説」のメロディが似合います。
posted by フランキン at 10:19| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

伊豆高原のレインメーカー

朝から灰色のままで特に重さを増すわけでもなかった窓の外の風景が、夕方になってぐんぐんと動き始めました。パタパタと音をたてながら窓ガラスに飛びついてくる雨粒が、さっきよりも風が強くなってきたことを知らせてくれます。ガラスについたばかりのひしゃげた雨粒が小さな光の曲折を幾つも作り出して、風景はいったん不透過になるのですがガラスが濡れ切ってしまえば再び元の見え方に戻っていきます。空には視界に収まらない大きな動きが感じられ、西の方角からうねりを伴った灰色の濃淡が速い速度で東の方へと移動していきます。そうしているうちにも、雨粒はさらに大きくなってきたらしく、落ちてきては軒先を打つその音がちょっとした鼓笛隊のドラムのようです。伊豆高原は雨と風・・・それもまた好し・・・です。



シェアした動画は、この時間の空の表情を伺いながら思い出したナンバーなのだけど、ずいぶん昔にCDショップで見つけた日本ではあまり知られていないEliza Gilkysonのアルバム、Legends Of Rainmakarの中のリードトラック、Song of the Rainbow Warriorという曲です。ちょうどBonnie Raittがグラミー賞を獲得した1989年に手に入れたアルバムなので、きっとElizaがBonnieの友達でもあるという繋がりで日本のCDショップの店頭に並んだのかもしれません。実際このアルバムにも、Bonnie Raittが参加していますしね。

Song of the Rainbow Warrior≠ヘ、Eliza Gilkysonのかなり個人的な経験から生まれた歌のようなのだけど、僕はなぜかとても惹かれるのです。伊豆に住むようになって、空を見つめることが多くなったのは確かなことで、見つめる時間が長くなればそれだけその移り変わりに面白味も感じるようになるものです。水と大気はこの地球の其処此処で動きを停めることなく廻りつづけ、人間はその巨大な循環の中で、空の表情を見つめ、伺いながら生きているのですよね。生まれ育ったカリフォルニアを離れ、ニューメキシコのサンタフェに移り住んだ彼女がネイティブアメリカンの人々とのつながりで感じたことや学んだこと・・・Eliza Gilkysonにとってそれらがどんな働きかけをもつものだったのかは想像するしかないのだけど、伊豆に移り住んだ僕がこの数年間抱いている感覚にも、きっと重なるものがあるんじゃないかなぁ〜などと、ちょっと勝手に考えていたりもします。^^

〜Song of the Rainbow Warrior〜

1969年の事
私はすべてをまとめ、カリフォルニアを後にした
向う見ずな転がる石
60年代の落とし子
偉大なる未知の世界へと向かった
私が探し求めていたのはレインメーカー
かつて彼が故郷と呼んだその土地で

サンタフェに転がり込み
流れに逆らった私は
土地の住民と知り合った
彼らは自らの夢を食べて生きている
心を解き放つ優しい手
笑い声が私を包む
そしてレインメーカーの伝説が
私の魂に窓を開いた

私は虹の兵士だった
愛と希望と変化が住むという
雲に覆われた峡谷を超え
また一人、虹の兵士が
雨乞いの舞を踊る

砂漠の中では分別も色あせ
所有欲はいつのまにか消えてしまう
太陽が照り付け、地を焦がし
私は毎日 種を蒔く
レインメーカーの名を呼び
儀式の舞を踊る時
夜の轟と雨雲の中に
その答えが下された

私は虹の兵士だった
アイと希望と変化が住むという
雲に覆われた峡谷を超え
また一人、虹の兵士が
雨乞いの舞を踊る

(訳詞 丸山京子 アルバムライナーノートより)
posted by フランキン at 16:54| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月21日

雨に濡れても

伊豆高原・・・昨夜から引きつづいて少しだけ冬に戻ったような冷たい雨が降っています。いささか勇み足な感じで暖かさが増し、桜の花も足並みが揃い切らずに咲き切れなかったようにも思えるこの春のスピードを此処いらでちょっとばかり緩めて、ペースを取り戻すのに必要な足踏みを数歩だけ許してね・・・っていうような感触があって、冷たいのだけど今日の雨は心地好いです。

こんな風に明け方前からの雨に見舞われるとあちこちで目にするのが、「今日は生憎(あいにく)の雨」・・・という言葉なんですが、人の営みの多くが晴れた空の下で成されるものだからこその不都合を軽くいなす表現なのだと思います。ところがこの「生憎の雨」・・・という言葉を目にする度に、「そうかな?」と、心の中で応じている自分がいるのも確かなことで、今日みたいな雨の降りやまない日には、自分はやっぱり、雨がそれほど嫌いでもないのだなぁ〜となどと再び思い直してみたりもしています。雨の日、不都合、予定変更・・・という風に連鎖する感覚には、紛れもなく、足踏み、停滞の感触が漂うのだけれど、宇宙と地球の営みそのものである天候の変化にはどうしたって人間は適わないわけで、あっさりと負けを認めて今日という日の空の様子を、「そっかぁ、それなら」・・・とそのまま受け止めてみると、身近な風景の中に雨の日ならではの様々な趣きに気づけるような気さしてきてかえって楽しくなってきます。



雨の日には日常の見えない呪縛が魔法のように解かれて、本当に大切なものが再び意味を持ち、カタチを成し、顕わにされてくる・・・そしてそれらを心に留め直すだけの時間を自分に許すときに、僕はシンプルさを取り戻してふたたび自由にされる・・・だから僕は雨の日が好きなのだとやっぱり思うのです。シェアした曲は、Burt Bacharach作曲、雨の日ソングとしてはすっかり定番のナンバー「雨に濡れても」Raindrops Keep Fallin' On My Head・・・B. J. Thomasの歌で1969年のアメリカ映画「明日に向かって撃て」の挿入歌でもあります。
posted by フランキン at 11:08| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月12日

薬缶を火にかけ湯を沸かすということ

数日前のことだけど、60人程の人たちが飲めるようにと湯茶の準備をする機会があり、久しぶりに大きな薬缶で湯を沸かすことになったのですが、この湯を沸かす≠ニいうとっくに馴染んでいるはずの行為が、そのとき僕には妙に新鮮に思えたのでした。思えば電気ポットを使わずに湯を沸かすという、このごく日常的な動作を最後に行ったのはいつのことだったか?僕は思い出せません。

小さな頃を思い起こすと、屋根の下には必ず何かしらの火があって、そこには薬缶がいつでもかけられていたように思います。寒い日の石油ストーブや火鉢の赤い火の上で静かにコトコト音を立てながら湯気を上げていた薬缶の周りには、引き寄せられるようにしていつも誰かしら人の姿があり、顔や手を温めながら背中の冷えをしのぎつつ、あれやこれやと言葉を交わしていたものです。

大きな薬缶を火にかけるということ・・・茶を入れるにしろコーヒー・紅茶を入れるにしろ、カップ麺を作って食べるにしろ、必要とされる湯をその人数を思い描いて量を決め、両手に水の重さを感じながら薬缶を火にかけて湯が沸騰するまで待つという、その一連の流れには、現に其処に在る必要≠充たしているという真っ直ぐな実感を伴うムダの無さを感じます。

記憶の中の風景を辿ってみると、薬缶というのは何時でも熱の温もりと湯のありがたみを感じさせてくれる生気の源のようで、どことなく太陽に似ているなぁ〜・・・などと思います。そうすると薬缶と人との関係というのは、真ん中に置かれた太陽と、個々に光や色など個性を異にしながら周回する幾つもの惑星から成る太陽系のようなものだと捉えることもできそうです。

小さな火があって、その上で大きな薬缶が静かな湯気をあげる。このシンプルな風景になんとなく安心感のようなものが感じられるのは、意識しているか否かに関わりなく、地球というひとつの惑星が、他の個性あふれる星々の家族と共に太陽の周りを廻りながら常に正面と背を入れ替えながら暖められたりまた冷えてみたりとを繰り返す営みを、身を以て経験している馴染深さに重なるからなのかもしれません。The Solar System(太陽系)・・・ごくごく身近な生活の道具との関わりの中に、宇宙のしくみを感じてみる・・・そういうのも、「有り」だと、最近の僕は思います。
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2013年04月03日

花たちのふるまい

昨日に引きつづいて、今朝の伊豆は冷たい雨の中にあります。僕の目の前には、海側に面した隣の空き地にポツンと立つ細くて小さな一本の桜の樹があります。はじめの内は何の樹なのか意識することもなく、ただ年ごとに背が高くなり、やがて窓から見えるせっかくの海の風景を遮るようになってくると、厄介なところに植えられた樹だなぁ〜などと思いはじめたものです。そんな厄介モノに思えていたその樹が、海数年前にはじめて花をつけて以来、毎年、近隣の華やかな桜並木の満開に少しだけ遅れて、ただ独り・・・殺風景な空き地の中で満開の桜を見せてくれるようになりました。こうなると、自分もじつに現金なもので、今ではその小さな桜の樹がじつに若々しく健気で、見ていると応援したくなるような気にさせられます。

自宅近辺の桜の様子を広く見渡せば、今年のさくらの季節は、ちょっとだけ淋しかったかも・・・そんな感じがします。伊豆高原のさくら並木通りのソメイヨシノは、イメージしていた満開に達するより先に緑の葉をつけはじめてしまいました。いつもなら空が見えなくなるほどのさくらのトンネルが、この春ばかりは疎らな隙を残したまま花の季節も過ぎていきそうな様子です。

草や樹が花を咲かせるということってそれは誰のためなのだろう?・・・そんな風に考えてみると、多分それは誰の為でもなく、その草や樹、自身のためなのかもしれません。

太陽の周りを公転する軌道に対する地球の傾きと、それにより廻りくる季節に応じた光の量や大気の変化など、人が肌で感じ取れるものだって多々あるにしても、きっと中には人間には感知しきれない自然界からの働きかけというのも現に在って、植物は、自分を取り巻くそのときどきの環境とありさまをそのまま受け入れては、その中で生きていくのに最も自然でふさわしいと思えるふるまい≠オている・・・そういうことなのかもしれません。

だとしたら、花の少ない桜の季節・・・そういうのも桜の樹の趣くままに有り≠ネのであって、人が自分の趣向や都合で意義を唱えることなんてできない生き物の在り方≠見せてもらっているようなものだという想いにも至り、人は、自分の視点や期待を脇に置いて、目にする周囲のありのままを受け止める・・・そんな謙虚さが自分の内にもあったのだと、思い起こさせられるような気がします。

何となく淋しく過ぎていきそうな桜の時季・・・森となり林となり並木となって連立する樹々からは独り離れて窓の外の空き地に佇む小さくて細い桜の樹。やはり満開を過ぎて、今朝は冷たい雨と少し強めの風の中で枝を揺らしています。それでも花びらはしっかりとまだついたままで、今この瞬間を咲き切ろうという意志のようなものを感じます。それがこの樹が表す、この春の、そして今朝のふるまいです。その花の様子は、それを見る人へ確かに働きかけてくるように感じます。でもあの花は、僕の為でも他の誰の為でもなく、あの桜の樹自身のために咲いているのだと、今朝は改めて想いに留めたのでした。
posted by フランキン at 09:26| 静岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月26日

鳥たちの言葉遣い

鳥たちにも言葉があるのだということは、春を迎えた伊豆の風景のあちこちで囀り合っている彼らの様子を見るとよくわかります。鳥の声というのも人間のそれと同じく、ある瞬間にそれを発しているか発していないかのふたつにひとつ・・・OnとOffなのであって、声を発するということにはそうさせるだけの何かしらの衝動があるはずで、個体としての鳥が声を発するよう動かされるということは、その衝動には方向性があって、多分そこにはちゃんと意味もあるのだと思います。人の耳にはみんな同じ囀り声にしか聞こえないとしても、鳥たち同士はちゃんとそれを聴き分けることができているのかもしれません。

僕には彼らの言葉はわからないのだけど、不思議なもので、声というのはニュアンスを伴っていて、春を迎えて桜もあちこちで満開に近い伊豆で、今この瞬間に聴こえてくる声を発した鳥たちの楽しげな気持ちは、なんとなくだけど感じ取れるような気もします。

手が届きそうなところからふいに僕の目の前に飛び出してくる鳥たちの、声を掛け合いながら競うようにして飛び去っていく様子には、人間などが入り込めない鳥たちだけの世界のようなものが其処にはあるのだとつくづく感じさせられます。中伊豆の田園の中を通る県道を走っていると、そんな鳥たちの世界とニアミスを経験することがあります。

今朝、ちょうど冷川の峠を越える辺り、緩やかなカーブに合わせてステアリングを左に切り、再び中央に戻して道が登りになって今度は逆にカーブしながらひと山越えようとすると、カーブの先の死角からふいに一羽のスズメが道を横断しながら車のフロントに向かって来てかすめるように飛び去っていきました。フロントガラス越しに左下方から右上方へという角度で横切って行った一羽の後につづいて間髪を入れずにもう一羽がその後を追って飛びだしてくると、その一羽はさらにフロントガラスに接近して危わや衝突!?・・・と思いきや、そのスズメは絶妙な羽根さばきで自分の動きに緩急をつけ、一瞬空中にホバリングしたかのようにブレーキをかけるとゴールに迫ったストライカーがディフェンダーを巧みな動作でかわすようにして僕の車とスレスレに飛んで後ろへと飛び去っていきました。その間、一瞬ですが、空中に止まったように見えるスズメと、間違いなく目が合った°Cがしました。

小鳥の言葉はわからないけど、気持ちはなんとなくわかる・・・今朝の場合は、声は交わしたわけではないのだけど、人である僕と鳥であるあのスズメとの間では確かに瞬間的な意思の交換のようなものがありました。所謂、アイコンタクトみたいなものですね。軽快なフットワーク(羽根さばき)で僕の車を交わしたあのスズメ・・・確かに、「アラヨっ!ホイサっ!」・・・と、言っていました。
posted by フランキン at 09:57| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月25日

意識の水面で引き合うもの

深夜1時過ぎにかかってきた電話・・・理由があるから時間を選ばない。受話器の声に耳を傾けながら、驚いたことに僕の中にも語るべきものが整然と沸き上ってくる。

想いの中に深く浅く漂いながら言葉として表される機会をジッと待っていたかのように、意識の水面でバラバラに思えていたあれこれが表面張力に引き合いながら近づき、次々と繋がってはパズルのピースがはまるようにカタチを成していく。それらのすべてが、ここふた月ほどの間に読んだ本や映像の中でふれて心に残したイメージや想い、そして言葉だったり・・・「ああ、あれらのすべては、この瞬間のために手にしたり出会ったりしたものだったんだ」・・・そんなことってありますよね。結局、対話は4時近くまでつづくことに。

人間は何事にも意味を求めずにはいられない生き物のような気がしますが、その意味というのは、後になって付されるものなのか?それとも、元々そこに在るものに後になって気づくものなのか?はたまた、ある瞬間に生ずるものなのか?いずれにしても、聴きながら語りながら、意味が腑に落ちてくる感覚が僕の中を何度も通って行きました。

ともあれ少し睡眠不足な朝・・・でも、意味が深く感じられる朝・・・皆さま、おはようございます。
posted by フランキン at 10:28| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月24日

ただ「今」に応じて「在る」という姿勢にすぎないのだとしても・・・

伊豆高原のさくら並木を走りながら、昨年残しておいた動画です。日付は2012年4月7日・・・この日付を見ると今年はかなり桜の開花が早かったのだと実感します。



前にラジオにゲストに来てくれた、遺伝子レベルで植物を研究し、今ではアロマセラピーと農との関わりをテーマとした活動をライフワークとしている和田文緒先生の言葉がとても印象に残っているのですが、彼女は植物について敬意を込めてこんな風に言っていました。

「植物は、とても戦略的に生きている」・・・

なるほどな~と思いました。根を下ろしたその場から動くことはできないにしても、その場で幹を成長させて枝を伸ばし、葉をつけて花を咲かせ、華やかな花の時季を過ぎて来年へと生き延び、ふたたび花をつけるということ・・・季節が巡り来るのは変わらないにしても、毎年微妙に変化する環境の中で命を保つためには、きっと自然の中での命懸けのありさまが在るのかもしれません。

今日は2013年3月24日・・・動画の残った去年の日付よりも12日くらいは早く花ひらくことに決めた∴ノ豆高原のさくら並木の樹々たち・・・この数日の速い遅いの違いにも、人間があずかり知ることのない戦略とも言える、人智を超えた判断のようなものがあるのでしょうか?たとえそれが、ただ「今」に応じて「在る」という姿勢にすぎないのだとしても、それ自体に、やはり敬意と愛着を覚えてしまいます。

青い空の色と見事なコントラストを成して華やかに咲き輝く桜の花たち・・・もしかしたらそれは、生のカタチが僕らとは全く異なる樹々や花たちの「いきざま」そのものなのかもしれませんね。伊豆高原・・・満開まであとわずかです。
posted by フランキン at 23:39| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月17日

「ウォレスへ・・・マリアより」〜あの夜を経て遺された100年前のヴァイオリン


中学生の頃に、たまたまテレビで放映された「SOSタイタニック」(原題 A NIGHT TO REMEMBER 1958,英)という映画を見て、僕は初めてこの船のことを知りました。

少年だった僕の目から見ても、絶対に沈むことはないとされたこの巨大豪華客船が、その不沈神話とともに初めての航海に大西洋へ乗り出し、ニューヨークへと向かう北大西洋上で氷山と衝突・・・星降る空の下、多くの乗客たちとともに氷海へと消えていったという物語は、自分が生まれる遥か昔の出来事とはいえ、あまりに劇的過ぎる運命的な船と人々、そして人類の物語に感じられ、僕はタイタニック号のことをもっと知りたくなり、当時はもっと数の多かったなじみの書店を数件ハシゴして、一冊の本を見つけました。旺文社の分厚い文庫本・・・それが、題名もずばり「SOSタイタニック」(ジャック ウィノカー編集)という本でした。タイタニックに乗船し、あの運命的な夜(1912年4月14〜15日)に遭遇しながらも、辛うじて救助された人々が綴った迫真の手記を編集したもので、単なる体験談のみに留まらず、生存者としてあの事故を振り返り、不沈船と云われたタイタニックがなぜ沈むに至ったのか?についての詳細な検証と、それらを教訓として二度と同様な悲劇が起こり得ないようにするために、技術的なことだけでなく法律的にも整備すべきと思える幾つもの点を指摘した提言までをも含んだ分厚い本でしたが、僕は夢中でその本を読んだのでした。

ふたつの「SOSタイタニック」・・・最初に見た映画もその後に読んだ本も、双方とも極めてドキュメンタリー的な感覚であの世紀の海難事故の詳細を振り返るものだったことから、1997にジェームズ・キャメロン監督、レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット主演で公開された映画「タイタニック」を見た時の印象は、あの夜にあの船に乗っていた実在の人物たちを周りに配し、ジャックとローズという架空の男女の悲運のラブストーリーを描いたものという印象が強く、極めてエモーショナルな大作映画なのだけど、初めてタイタニック号のことを知ることになった「SOSタイタニック」を見た時ほどの心揺さぶる印象には及ばなかったのが僕の最初の感想でした。

しかしよく考えてみると、1513人もの犠牲者を出してしまった事故・・・そのひとりひとりに人生があったことを思えば、ジャックとローズのような若い男女もきっと幾人もあの船には乗っていたはずで、命を落として海に消えていった犠牲者の数の方が生存者のそれを上回るような悲劇であったことをからすれば、もしかしたら其処には、今では知られることもない幾組ものジャック&ローズがいたのではないか?・・・映画館で「タイタニック」を見て、後にDVDの発売とともにもう一度見た頃には、きっとそうだったに違いない・・・と思えるようになり、あのジャックとローズが、あの夜に終わりを迎えてしまったかもしれない幾組もの悲劇のカップルを象徴するふたりのようにも思えてきたのでした。

そこでこのニュースです。英国のとある民家の屋根裏から発見された、ひとつの古い古いヴァイオリン、それはあの夜に、沈みゆくタイタニック号の上で演奏されたものであるといいます。「ウォレスへ、婚約を記念して マリアより」・・・と銘打たれた銀製の飾り板、そしてあの悲劇の夜に絶たれ、別たれたふたり・・・。ウォレスとマリアのふたりは婚約中で、そのヴァイオリンは婚約の記念としてマリアからウォレスに贈られたものだったのだといいます。氷山の衝突からわずか2時間40分で沈んでしまったタイタニック号の悲劇の現場、凍える海の上で、救命ボートの絶対数そのものが全く足りていない緊迫した中で船外退避を指揮する航海士たちにより、一等船客の女性と子供を複数の男性船客よりも優先して救命ボートに乗せるという方針がとられたという事実も思い起こせば、愛し合い将来を誓い合った若い男女とはいえ、ひとりが助かり、ひとりが命を落とす・・・というような現実が実際には幾つも起きていたのかもしれない・・・ということは、容易に想像がつきます。このニュースに接して、映画の中のジャックとローズが、僕にはこれまでよりもさらに現実の血の通った温もりを帯びた存在として感じられました。

これまでも多くの人々が語り、また、タイタニックのことを考える時に誰もが思うことなのでしょうが、ある出来事とが100年を超えて語り継がれるようになるということ・・・其処には、個人の生涯を超えた人間の歴史と未来全体に渡る意味合いが含まれているように感じます。100年前の北大西洋上での出来事・・・その現実のストーリーは今でもその事実にふれる人にある種の緊迫感を抱かせます。

絶対に沈まないはずの船は、英国のサウサンプトンから初めての航海へと船出し、目的のニューヨークにたどり着けないまま氷点下の海へと消えていきました。犠牲となって命を落とした多くの人たちからすれば、100年を経た今も新大陸アメリカの港は見果てぬ夢のまた夢となったままです。あの透き通るような星降る穏やかな夜、氷点下の海に投げ出され、夢を絶たれたジャックとローズのような若者たちは果たしてどれほどの数に昇ったのでしょう?「絶対」という言葉の不確かさ・・・人間の業績にこの言葉を付されて語られ、それを目にする時、耳にする時、極めて明快で信頼性の高さを滲ましながら感じられるこの表現には、それを発する人間の驕りを伴っていることが、歴史の中には幾度も繰り返されてきたのだということ、僕らは思い起こすべきなのかもしれません。

ローズのことを気遣い、氷海に消えていったジャック・・・救助されて命を長らえながらも、その後いつまでも独身を貫いて生きたローズ・・・奇しくも、このほど発見されたヴァイオリンをタイタニックの沈没と共に死んでしまったウォレスにプレゼントしたマリアも、1939年に亡くなるまで生涯独身を貫いたのだそうです。下記にURLをリンクした曲は、1997年版の映画「タイタニック」のテーマとしてセリーヌ・ディオンによって歌われたMy Heart will go onを、Neal Schonがギターインストルメンタルとしてリリースしたものです。

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2013年03月12日

中伊豆の道のヴィンセント

早朝に中伊豆を走ると、道の両側に広がる田畑の風景の中にポツンポツンと民家が建っていることに今更ながらに気づいて急に新鮮な気持ちにさせられます。

何度も何度も通っているはずの道で、どうしてこんなに清々しい生気を覚えるのだろう?どうやらそれは、秋が過ぎて以来、冬のあいだは色を失くしていた田畑の広がりの中に立つ農家の庭や人々が行き来する小道沿いに立つ木々が、春を迎え、其処此処で絵筆がふるわれて仄かな桜色が束ねられるようにして花ひらく様子に目を惹かれるからかもしれません。

心の中にキャンバスを広げ、ゆっくりと過ぎていく少しだけ遠くの風景を切り取っては想像上の絵画を縁取っていくと、通い慣れた伊豆の道を走りながら、左右に展示された何枚もの「展覧会の絵」を鑑賞しているような気分にも浸れます。

誰もが目指す観光のスポットというわけでもなく、走り慣れ見慣れた風景がただ連続していく中に、少しずつ、でも着実に色を取り戻していく中伊豆の田園風景・・・伊豆の道を車で走るなら、他のどんな旅にも言えるように、目的とした場所だけではなく、そこまでの途中の風景が与えてくれるものを大切に見つめたい・・・そんな気持ちにさせられます。

絵心のある人は、この彩りの変化をどんな目で見つめるのだろう?思い出されたのは、Don McLeanがヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことを親しみを込めて歌った、Vincent (Starry, Starry Night)≠ニいう曲です。心惹かれる風景の前に立ったとき、ふ・・・と、かつて目にしたことのある絵画とその描き手の心がわかったような気持ちになったりすることはありませんか?今朝通った中伊豆の道は、そんな気分を僕の中に生じさせてくれました。

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2013年03月06日

シヴィライゼーション・・・そしてフェッセンデンの宇宙

この日記は、少し前に話題になっていたらしいweb記事
サーチ(調べる)「十年間シヴィライゼーション2をプレイしています。これがその結果です。」
を読んで思ったことなのですが、またちょっと長いかもです。

エドモンド・ハミルトンというSF小説家が1937年に発表した「フェッセンデンの宇宙」という物語がとても好きなのですが、簡単にいうと、とある科学者の屋敷の中に創造された人工箱庭宇宙と、それを創造した科学者が辿る皮肉な顛末を描いたショートストーリーでした。

小学生の頃にはじめてこれを読んだ時に覚えた、無限に思える宇宙の広がりのその向こう側へと想像力を掻き立てられて落ち着かない感覚に捉われて受けた衝撃は、当時の僕にとっては実に新鮮な経験でもありました。

「フェッセンデンの宇宙」が僕に及ぼしてきた働きかけは、無限に広がる宇宙の「外側」に視点を置き、スーパーマクロな視点からミクロのものを見つめるようにして、いま自分が生きているこの地球という星と環境のことを考えてみる・・・という「観点遷移」の面白さ、興味深さでした。たとえエンターテインメントとして書かれたSFストーリーであっても、時にそれが大きく意味を帯びて読者に迫ってくることがあるものですが、このストーリーを読んだ小学生の僕にとっては、まさにその種の読書体験であったわけです。

自分の屋敷の中に宇宙を創造した科学者フェッセンデン・・・その小さな宇宙を外側から観察者する者としての彼はやがて傍観するだけではなく、その小さな室内箱庭人口宇宙の中に生まれてきた星系や惑星、その上で育まれてきた生命と進化、文明と社会の発展に自ら関与するようになり、それが物語を悲劇的な結末へと導くことになります。この小さな室内宇宙の中で起きていることは、すべてが自分の手の内にあるという驕り・・・フェッセンデンはこの宇宙を創造し、無数の生命に生存の機会をもたらした自分自身を、「神」の立場にいつの間にか置いてしまったとも言えそうです。

さて、近年はこれと同じようなことを疑似的に体験することができるようになりました。つまりは「都市建設シミュレーション」や「文明育成ストラテジー」など、バーチャルな環境下での世界構築をユーザーに体験させてくれるPCゲームなどの存在です。「シヴィライゼーション」というPCゲームがあるのですが、かなり精巧にそして真面目に作られたもので、僕もずいぶん前に一度入れ込んだことがあります。そのシリーズの「シヴィライゼーション2」を、もし10年間プレイし続けたなら、果たしてどんな世界が出現することになるのか!? そもそもそんなに長い間このゲームを続けられる人がいるなどと考えたこともありませんでしたが、世の中には実際にプレイしつづけた人が本当にいるのだと知って驚かされました。冒頭にリンクしたページは、10年間このゲームをしつづけた結果出来上がった約2000年後の世界について記した、ある英文のページの日本語訳ページです。

箱庭宇宙の創造者フェッセンデンは、自分の手の内にある生命や文明に対して傲慢に振る舞いました。しかし「シヴィライゼーション2」を10年間プレイしつづけたという人物は、シミュレーションゲーム上のこととはいえ、西暦3991年という未来に世界が陥る状況にプレイヤーとして行き詰まり、それに対して自分がいかに無力であるかを嘆いているかのように感じられます。絶え間無くつづく核による戦争と破壊、放射能汚染、地球温暖化、農地の喪失とそれに伴う飢餓が蔓延し、それでも争いをやめられない未来世界、そんな状況からなんとか世界を取り戻したい・・・ということで、彼は自分のセーブデータを公開して同じゲームのプレイヤー達に事態打開の為のアイデアを求め、意見交換を試みたのだそうです。

それにしても、西暦3991年の未来の地球、そして人類と未来社会の姿。プレイヤーの思惑を跳ね返して止まらない世界の暴走ぶりには、たかがゲーム、たかが遊び・・・とはいっても、何やらそら恐ろしいものがあります。もしこの仮想構築された世界に生きる住人がいるならば、いったい彼らはどんな悲惨な日々を強いられていることでしょう。事態のありさまに嫌気がさして、プレイヤーがこの世界をリセットし、何もなかったことにして初めからやりなおそうとする・・・そんな選択もあり得ると思いますが、このプレイヤーはそうはしなかった・・・それがこの世界に住む者たちにとって幸いなのか?不幸なのか?それはわかりませんが・・・

「フェッセンデンの宇宙」は、世界を構築しそれを見守る創造者としての驕りから自ら破壊者となり悲劇を招いてしまう物語でした。では逆に、地球と其処に息ずくものたちを世界の外から見守るような、例えば「神」のような(この話題からすればゲームのプレイヤーのような)存在が何処かにいると仮定してみると、その注視の下でやはりゲームと同様にのっぴきならない未来に至りかねない道を突っ走っているようにも時に感じられる人類のありさまは、その「神」なり「プレイヤー」なりの視点を持つ者の目にはどんなものとして映っているだろう?

物語は時に現実に先行して示唆を与える・・・
ときどき僕はそんな風に思うことがあります。

願わくは、フェッセンデンが作った宇宙でもなく、「シヴィライゼーション2」を10年間プレイし続けた末に見えてきた遥かな未来でもない、現実の地球に構築されてきた人類の社会と歴史に対して、リセットのキーがクリックされるようなことなど、決してありませんように・・・そんなことも考えてしまいます。
posted by フランキン at 14:37| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月02日

春が来た 春が来た 何処から来た?

昨夜の強い風も何処かへ消えた伊豆高原・・・穏やかな朝を迎えています。強い風が吹く度にその翌日には少しずつ暖かくなってくるように感じます。廻る季節の中で、冬はこれから何処へ往き、春は何処からやってくるのだろう? それぞれの居場所があるとすれば、古代の人たちが大風や雷、雨や雪にも、それらが蓄えられている「宝庫」があると、古い詩に謳ったとしても不思議ではなく思えてきます。

人には見えない、つかみきれない・・・そんな個人の感覚の領域を超えた遠いところにある何処かのことを、人はしばしば「彼方」・・・という言葉で表します。それにふれる人に、特定でない場所の存在を表す不確かさを含んだこの言葉には、何もかもが歴然とつかみ切れていなくても、方向さえ感じ取れていれば人は得心できる・・・という、精度にとらわれずに大小のズレを楽しむ余裕のようなものを感じます。

春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た


誰もが幼稚園くらいの時に既に歌ったことがあるはずのこの唱歌の感覚がとても好きです。春になった・・・というよりも、「春が来た」・・・という感覚。彼方より自分が今いるこの場所に春が来てくれた・・・という「迎え」と「受け止め」の感触。

過ぎていく冬・・・訪れる春・・・そのふたつを明確に隔てる線のようなものはないと僕は思うのだけど、でも人は風景の中の幾つもの変化に「兆し」を見てとり、「春が来た」・・・と歌いたくなるような穏やかな解放と高揚を感じるのですね。目にふれてくる木々の芽吹き、花の開花、雲の形の変化や肌にあたる空気の感触・・・今この瞬間の経験が、果たして冬に属するものなのか、それとも春に属するものなのか? 曖昧な中に気づくようにして受け取る「春」の訪れの感覚・・・いい季節です。

伊豆高原・・・とても暖かな日となりました。来てくれた春をもっとしっかりと捉えてみようと、きっとたくさんの人たちが今日は伊豆を訪れてくれるような気がします。3月2日土曜日・・・伊豆の海岸線を走るR135も、少し混むんだろうな。。。
posted by フランキン at 09:43| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

カシリが輝く夜

少し前に読んだバルガス・リョサの「密林の語り部」という小説の中に、月のことが書かれていました。アマゾンの密林に住むマチゲンカ族には、人と自然の関わりや結びつきについて語られる幾つもの物語があり、彼らはそれを文字でも絵でもなく、口から口へ・・・語り伝えることにより今に遺してきたのだといいます。

密林に点在して生きるマチゲンカ族の集落を廻り、固唾をのんで聞き入る人々を前にして何時間も物語り、そうやって古来からの精神性が保たれていく・・・そのストーリーに準じて文化が保たれ、彼らの化粧や衣服、習慣までもが特徴づけられていく・・・彼らとは異なり、物質と情報に恵まれている*lらは、余りに多くの事々に日々晒されているからなのか、物事をシンプルに考えることがなかなか難しくなってしまいました。だからいつも、今日ではなく、明日を、未来を危惧しなければいられません。でも、マチゲンカ族の観点からすれば、月や太陽や地を思いやること・・・それがそのまま自分たちの幸福につながる・・・たまにはそんなシンプルな物語を古来からの真実を含んだ風景の描写として捉えてみるのもいいことがもしれません。

マチゲンカ族の言い伝えによると、夜空に昇り、太陽よりも弱く柔らかな光を放つ月は、「カシリ」(この名の音の響き、僕も気に入りました)という名で呼ばれるのだそうです。太陽はカシリとマチゲンカ族の娘との間に出来た子供ではないのか?語り部は自分たちのルーツと大宇宙とをつなげて物語り、大自然と人間として生きている自分たちは不可分の関係にあるのだということを、ごく当たり前のこととして聴く人々の脳裏に種を撒くようにして伝え続けます。

月が完璧なまでに丸い形を成して光を放つような今夜のような夜には、どの土地に住む人々も古来からその月のありさまに誘われて何かしらの意思のようなものを感じてそれぞれに擬人化した物語をもっているものです。

伊豆高原から見つめる真ん丸の、そして輪郭がじつにくっきりとした今夜の月は、高さを増すにつれて周囲に漂う雲の輪郭までを冷たい光に焼き焦がすような力強さがあります。月を中心に光背のように広がりながら伊豆の海を照らす月光は、海そのものを月面に変容させます。高原の上から車で走り降りる時にウィンドウ越しに見る銀色の海原は、さながらこれから着陸を目指す月着陸船のコックピットからの光景のようにも思えてきます。

真ん丸のカシリが光を放つ今夜・・・何もかもが違って見える・・・感じられる・・・こんな夜は、ひとつの神話の様相であって、マジックなのだと感じます。皆様、今宵はぜひ月に目を向け、どうぞ素敵な夜を。。。
posted by フランキン at 19:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月09日

不思議なものだ、ライオンがもうこの世にいなくなるのかと思うと


〜「不思議なものだ、ライオンがもうこの世にいなくなるのかと思うと」〜

フィリップ・ワイリーとエドウィン・パーマーによって1932年に書かれた小説、WHEN WORLDS COLLIDE (邦題「地球最後の日)の冒頭の辺りで、壁に掛けられたライオンの剥製に目をやりながら、ある天文学者がつぶやくようにして発する言葉です。小学生の頃にこの物語のジュナイブル版の翻訳本を読んで、何気なく発せられたこの台詞が醸し出す意味合いが強烈に印象に残ったのを今も憶えています。当時の僕にとって、ある日を境にして慣れ親しんだ周りの世界がガラっと変わってしまう・・・そんなことが有るかもしれない、と想像することは、違和感と緊張感の混じり合ったジワジワとした非現実をつき付けてくるものに思えました。

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posted by フランキン at 19:47| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月05日

わずか一文字で違ってくる

函南の方へ出かけてネロリさんと二人して昼ごろに立ち寄ったのが、静岡県ではよく見かける五味八珍というラーメン&中華料理のファミレスでした。590円でランチをいただけるとしたら、かなりリーズナブルな気がしますが、今日は二人してそれぞれ、鳥から揚げとお好みのラーメン、そしてご飯がついた定食スタイルのランチメニュー、いやはやボリュームたっぷり、食べる前から満足してしまいました。

さて、今日この店で注文を取りに来てくれたのが珍しく男性の店員さんで、この店員さんがお客様と話す時の発声がなんともすっきりしっかりしていて心地よい・・・明快さと温かみを兼ねた印象の若者でした。

そしてこの記事を書こうと思ったのは、彼がごく自然に発した言葉の中の、わずか一文字の違いによる大変素晴らしい食事空間の変化を経験したような気がしたからなのです。

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posted by フランキン at 21:48| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

森のフクロウとプロメテウスのエイリアン


フクロウといえば、ファンタジーストーリーのハリー・ポッターに登場するフクロウのヘドウィグをはじめ、どこぞの家庭教師センターのフクロウ博士などなど、幾つものキャラクターが思い出されます。頭部をクルクルっと回転させるしぐさがじつに愛嬌があって可愛らしく感じるのだけれど、じつはあの頭部旋回動作は、たいていの生き物にとっては(特に人間には)命を即縮めてしまう行為なのだそうです。身体の向きはそのままにして、頭だけを真後ろに向けて後ろにいる人と会話してる自分を想像するだけで、ごく普通の人間の僕としてはちょっと苦しくなってしまいます。でも、なんとフクロウの場合、左右それぞれに真逆(真後ろ)を超えて270度まで回転させられるというのだから、オカルト映画の「エクソシスト」に出てくる悪魔に憑かれた少女リーガン並みの超自然的荒業を当たり前にこなしていることになります。

「あんなことやって・・・なんで自然界には脳卒中で死んでしまったフクロウが見つからないのか!?」

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posted by フランキン at 19:15| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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