2007年12月09日

違和感が拭えない…映画「ブリッジ」

ブリッジ

ボクし自殺は肯定しません。
でも、ひとりの人間が、
それ以外に選択肢がない…としか思えないような、
心が脱水した精神状態に陥ることはあり得るのだ、
ということを否定はしません。

死の選択に身を任せた人たちへの考えや感じ方は
人によって様々だと思いますが、
自分が当人ではない以上、正しさを掲げることも、
その人たちを責めることもボクにはできません。

死までは小さな一歩…
自殺したジーンという男性の家族がそう言う。
多分そうなのだろう。

自殺した人たちとボクとの間に、
大きな違いなどは、多分ないのだと思います。

さて…この映画、ブリッジ…

ゴールデンブリッジを中心とした、
瞬間を積み重ねたような映像と流れる音楽の美しさ…
映画を見る側は、淡々と流れる映像を見つめながら、
静かな気持ちでここで起きた
幾つもの死と向き合うことになります。

製作者は決してセンセーショナルな描き方をしているわけではありません。
また映画は、ここで死んだ人たちを
特別に異なる人たちとは描いてはいません。
この映画の監督はきっと厳粛な気持ちを抱きつつ、
この作品を撮ったのだとだろうと思いたいです。

しかし…
ボク個人がこの映画についてどうしても捉われてしまう
ひとつの印象を書き残しておきたいと思います。

それは…現実、そして真実を伝えるのに、
この方法は果たしてあるべきだったのか?

固定カメラで捉えたゴールデンブリッジの一年間…
そういう触れ込みのトレイラーでしたが、
映画のオープニングで飛び込む男性の映像を見るだけでも、
これは固定カメラなどではなく、
カメラマンがズームしたカメラをかまえて対象を追った、
手動撮影映像であるということがわかります。
(あるいは固定映像を後でクローズアップ?)

自殺に及ぶと予想される人物を追うカメラの動きは、
偶然にそこにあるのでない以上
撮るべきものが目の前で展開されることを
期待しているということをどうしても感じさせてしまいます。

映画の終わり近くに身を投げるジーンという男性の撮影については、
落下の瞬間を二方向から撮影するという、
明らかに彼の自殺を前提として準備した撮影に思えます。
そこにこのドキュメンタリー映画への違和感を強く感じさせられるのです。

演出もシナリオも何もない…確かにそうです。
本当になにもないのです。
もちろん、カメラを構えている製作者たちは、
自殺者を救うためにそこにいるのではありません。
でも、そこにどうしても矛盾が発生してしまうのです。

自殺することが明らかな人たちを、
カメラ映像の中の通行人たちが一生懸命に止めようとしている…
しかしファインダーを通してその成り行きを見つめる撮影者は、
彼らが身を投げる瞬間をただ待つのみ…

この立場の違う二者の間にある違いは、いったい何なのだろう?

様々な批判もあるようですが、
自殺の瞬間やプライバシーを見せた…
ということがこの映画への批判となるべきではなく、
その瞬間へのプロセスに製作者側が、
ひとりの人間としてのレスポンシビリティを放棄し
決して関与しようとしなかった…
テーマを満たす映像となる光景を見せてくれる人たちを
その機会と力があるにも関わらず放っておいた…
というところに、 ボクはこの映画への違和感と疑問を、
どうしても強く感じます。

多分、事実を事実として見せるドキュメンタリーとして、
自殺という現実の存在を映画にするためには、
超えなければならない境界のようなものがあったのだろうと思う。

見据えるべき事実とメッセージを真っ直ぐに投げかけてくる作品…
そう感じながらもボクの感じた違和感は、いつまでも残りそうです。
疑問はずっと拭えないでしょう。

止められ得たはずの死をほう助してまで、
この映画は本当に作られる必要があったのだろうか?
posted by フランキン at 10:56| 静岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たぶん「仕事」になってしまいそうなので、ご紹介頂けた作品を鑑賞することはないと思われますが、フランキンさんがこの場でおっしゃりたいことがわかるような気が致します。もちろん、僕の誤解や曲解の可能性も否定はできませんが。

フランキンさんの文面から僕が想像するに、「演出」がないのかもしれないけれど、「見せ物」としてこれを見せようとしているというところに僕は表現者の端くれとして違和感を感じている気がします。

結局、彼らはある種の傍観者、観察者として、そこに存在し、ありのまま(?)の映像を映し出すことによって、そこから逆説的に浮かび上がる様々なメッセージをあぶりだそうとしているのかもしれません。
でも、僕からすればそれを「見せ物(映画)」にしようとした時点で彼らは単なる傍観者、観察者として存在することはできません。
フランキンさんが表しているように「幇助」に他ならないわけで、僕は「自殺」というものを面白おかしくではないにせよ、映像に残そうとしている時点で観察者を装った殺人者であるように思えてなりません。
結局「自殺」がそこで行われなければ、ある種の「作品」として結実しなかったでしょうし、「ブリッジ」で行われている「自殺」があってこそ成立する作品ですからね。
ある種の「自殺」を選んだ人の「尊厳」を大切にしたという言説を取りうることもできるでしょうが、1人の人間として、違和感を僕も抱くような気がします。

ただ同時に、何度か僕は「自殺」を止めていますが、その度に自殺未遂者が僕に問いかける言葉を思い出します。

「どうして自殺させてくれなかったの?」

と訊かれて、答えに窮した自分自身と自殺を止める度に向かいます。

究極的には彼や彼女のためかもしれませんが、結局の所、そこにあるのは自分のエゴでしかないのかもしれないから。

自殺を僕も肯定しません。
だけど、今もって僕が自殺を止めた自殺未遂者に答える言葉を持ち合わせていないのも自分なのです。

それはともかく表現として、僕には認められません。どんな理由がそこにあろうともフィクションでノンフィクションを越えたいと思います。
Posted by たね at 2007年12月09日 21:34
たねさん、コメントありがとうございます。
ボクの感じたことをそのまま洞察していただきました。
さすが心理を専門とされるたねさんだなぁ〜と思いました。

>結局、彼らはある種の傍観者、観察者として、そこに存在し、ありのまま(?)の映像を映し出すことによって、そこから逆説的に浮かび上がる様々なメッセージをあぶりだそうとしているのかもしれません。
>でも、僕からすればそれを「見せ物(映画)」にしようとした時点で彼らは単なる傍観者、観察者として存在することはできません。

そうなんです。どうしてもそこに違和感を覚えてしまうのです。
映画の撮影に徹した製作者が撮影対象から距離を置くことは必要なのだとは思いますが、
ことにテーマが自殺となれば、距離を置くことの意味が違ってくると思います。

>フランキンさんが表しているように「幇助」に他ならないわけで、僕は「自殺」というものを面白おかしくではないにせよ、映像に残そうとしている時点で観察者を装った殺人者であるように思えてなりません。

見る観客の立場としては、普通の通行人と変わりない感覚を残したまま、
冷徹ともいえる傍観者に徹したカメラの視点を共有させられるわけで、、
人によっては静かに見つめながら強烈な違和感を抱かされます。

>結局「自殺」がそこで行われなければ、ある種の「作品」として結実しなかったでしょうし、「ブリッジ」で行われている「自殺」があってこそ成立する作品ですからね。

最も明確なのがその点なのです。
事前に準備し、自殺の実行を期待しながら待機していたゆえに撮影されたものであること…
偶然に撮れた映像とは与える影響が全く異なってきます。
感覚はそれぞれだとは思いますが、見る側が受ける衝撃の理由は、、
この点からから来るものは確実にあるのではないかと思います。

>ある種の「自殺」を選んだ人の「尊厳」を大切にしたという言説を取りうることもできるでしょうが、1人の人間として、違和感を僕も抱くような気がします。

おっしゃるとおりの印象をきっと抱かれることと思います。

>ただ同時に、何度か僕は「自殺」を止めていますが、その度に自殺未遂者が僕に問いかける言葉を思い出します。

>「どうして自殺させてくれなかったの?」

>と訊かれて、答えに窮した自分自身と自殺を止める度に向かいます。

>究極的には彼や彼女のためかもしれませんが、結局の所、そこにあるのは自分のエゴでしかないのかもしれないから。

>自殺を僕も肯定しません。
だけど、今もって僕が自殺を止めた自殺未遂者に答える言葉を持ち合わせていないのも自分なのです。

心理を専門とされるたねさんは、きっと
もっともっとリアルに自殺という現象と向き合ってこられたのでしょうね。
当人ではない以上…それに対しての自分の心についてしか本当は語れないことなのだろうと思います。
人間として…その場で自然と湧きあがってくるものがきっと真実なのだろうと思いたいです。

>それはともかく表現として、僕には認められません。

仰るとおりだと思います。
この映画が提起した社会で生じている事実に目を向けることは必要なことなのでしょう。
でも、この映画が成り立たせられたプロセスには、疑問を拭えません。
そういう意味ではこの映画は一線を越えてしまっています。

>どんな理由がそこにあろうともフィクションでノンフィクションを越えたいと思います。

そうですね。それでこそ映画というメディアが出来得ることなのではないかと思います。
たねさん、貴重にコメントをありがとうございました。
Posted by フランキン at 2007年12月10日 10:02
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック