2007年08月15日

ストランスキー大尉とシュタイナー伍長の確執、そして今日という日

今日は終戦記念日なのですね。
今感じることを、いちおう書いておこう。



1977年にサム・ペキンパーが監督した映画、
Cross of Iron(邦題「戦争のはらわた)は、
敗戦色濃厚な欧州東部戦線における
ソ連軍の大攻勢中の極限状況下、
最前線のドイツ軍部隊の中で、
戦争の中にこそ自身の存在価値を高められると狂信し、
ひたすら鉄十字章を得ることに執着する
ドイツ貴族出身の大尉ストランスキーと、

戦場における数々の武勲によって
兵士として信頼と尊敬を得ながら、なおかつ
戦争を心底憎悪するシュタイナー伍長
との間の確執を通し、戦争という状況が、
人間にどれほど破壊的な影響力を及ぼすものなのか…
痛烈な皮肉と悲しみをもって赤裸々に表現した
心に残る作品のひとつでした。

あるシーンで、
塹壕の中で部下と語り合うシュタイナーが、
名著といわれるかの「戦争論」の著者である
プロシア軍人、クラウゼヴィッツを引き合いに出して
侮蔑と皮肉を込めて言う…

確かあのバカは、戦争とは政治的表現の延長だ…
などと言っていたな…


戦争論を読んだことのないボクは、
クラウゼヴィッツがどういう意味で、
「戦争は政治の継続である」
と述べたのかは分かりませんが、
戦争が政治的な事柄としてしか語られないように感じる、
今も厳然とある風潮には、
違和感とともにやはり抵抗を感じます。

戦争は繰り返してはならない…
誰もが口を揃えてそういいます。
心の中を隠したまま笑顔を浮かべた政治家が、
自分だけの特権であるかのように用いる、
国防という言葉…

テレビやラジオでは、
人気ジャーナリストや大学の先生方など、
いわゆる知識人と呼ばれる人たちが、
学ばない人類の過ちをことさら詳しく解説し、
まるでゲーム勝ち負けの話しであるかのように、
プライドを賭けて主張合戦を繰り広げる…

どこかおかしい…

戦争が悲惨なのは当たり前…
しちゃいけないのも当たり前…
でも、その当たり前であるはずのこと、
本当に語られ、
本当に聴かれなければならないはずのものが、
ないがしろにされていませんか?

戦争とは…
決して政治や利害の問題ではなく、
勝ち負けでもなく、
その現実の風景は、

自分の大切に想う人が当然のようにして
掻き消され、いなくなることであり、
自分という人間が、
知らない誰かに「死ねばいいのに…」と願われ、
大挙して武器を持った他人が
自分への殺意を抱いて殺到することであり、
すれ違ったことも言葉を交わしたこともなかった誰かを、
「敵」とみなして怒り、憎み、
その人間を撃ち砕くことであり、

一端始まれば、
この地球上で何の関わりもなかった復讐心が連鎖し、
誰もが自分のかつては持っていなかったはずの感情に、
泥にまみれるようにして囚われていく…

人間は戦争を忌み嫌うべきです。
近づいてはならないのです。
関わりを持ってはいけないことなのです。


毎年この8月15日が訪れるたびに、
あの時代を悼む人々の姿とともに、
メディアに映し出される政治家たちの、
いかにもワケ有りな動静に、
いぶかしさと乾いた悲しみを感じてしまうのです。

話しはもどりますが、
シュタイナー伍長は映画の中で語ります。

俺はこの戦争と戦争に関わるものすべてを、
心底憎悪しているんだ…


今、政治を司る人たちの中で、
このシュタイナーと同じように心底戦争を憎んでいる人は、
本当にどれほどいるのだろう?

戦争を自己のアイデンティティ確立の機会としか見なかった
ストランスキー大尉と同じとはいわないまでも、
彼が駆られていた鉄十字章への執着と、
戦争への関与へのプロセスをいっそう容易なものとしていくことが、
国際的な信頼や存在感を得るプロセスとして不可欠と考えることの間に、
果たしてどれほどの違いがあるのだろう?
posted by フランキン at 19:27| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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