2015年04月13日

ソロモンの偽証 後篇・裁判

4/11に公開されたばかりの映画、「ソロモンの偽証 後篇・裁判」を見てきました。以下はネタバレは含みませんが、未見の方にはちょっと興醒めにつながることもなり得る日記ですので、どうぞご注意を。
宮部みやきの原作小説は、聖典並みに分厚い単行本全3冊 計1500ページを超える超大作で、それでもほとんど一気読みだったあの小説がどんな風に映画作品として再編され創られたのか、とても気になっていました。
ひと月早く公開された「前篇・事件」を見終えた時点では、原作とは少々異なる脚色やキャラクターの造形についての変更などは、あの大作をまとめ上げるには致し方ないかなと思える程度に思え、むしろ映像化のためのアイディアのようにも感じられて、原作に思いっきり夢中にさせられた読者のひとりである僕から見ても、後篇への期待も高まるなかなかの仕上がり・・・そんな風に思っていました。

が、しかし・・・あくまで原作に心酔した僕個人の印象ですが、この「後篇・裁判」・・・残念ながら、失速です。

まず、裁判とタイトルされた後篇であるにもかかわらず、そのタイトルとは裏腹に、裁判劇として成功していない・・・というのは少し優しい言い方で、脚本と演出が、肝心の裁判そのものに殆ど重きを置いていないような印象を受けました。

原作においては、自分たちの学校生活を激しく揺さぶったクラスメートの死亡事件と、それに伴って発生した無責任で心無いマスコミの攻勢、事件の波紋から学校を守り生徒たちを守るという点においてそれぞれに異なる信念を抱く教師たちの不一致と父兄たちの思惑、騒動を終息させようとするばかりで真実を追求しようとしない大人たちへの不信と疎外感に晒された城東第三中学校2年A組(死亡した生徒のクラス)の生徒たちをはじめ、自分たちで真実を明らかにしようと悩みに悩み、そして決意のうちに立ち上がった生徒たちが、空白となった学校生活と友達同士の信頼を取り戻すために役割を分担しながら懸命になって開廷する学校内裁判での攻防が迫真のものとして描かれていました。中学生による模擬的な裁判であるにしても、その展開は大人も固唾をのんで見守りたくなるほど鋭く真剣なものとなり、それだけに、生徒たちが心に受けた傷の深さ反映されていたように思います。

映画と原作は必ずしも同じではないことは十分わかっているつもりですが、映画の「前篇・事件」の成功でいやがおうにも期待が高められた学校内裁判が、「後篇・裁判」では今ひとつ盛り上がりに欠けた、ダラリとした展開になってしまったのが残念でなりません。裁判劇に不可欠な事実・真実を間に置いての検察と弁護側の応酬が全くなく、せっかく証人として証言台に立っている人物が、何を立証するための尋問を受けているのかも曖昧なまま進んでいく裁判描写に、違和感を覚えました。

思うに映画の製作者の意図するところは、観客にいわゆる感動を与えたいというところに集中していて、それゆえにラストに明かされる真実のみを重視し、そこに至るまでのプロセス、つまりは物語そのものを結果的に疎かにしてしまった・・・というところでしょうか。



ただ、あえて演技経験のある少年少女俳優を用いず、全国10000人の中学生が参加したというオーディションを経てキャスティングされた少年少女たちについては、その完成度についてのバラつきは否めないものの、主人公の藤野涼子をはじめ主要な登場人物たちについては、それもやはり「前篇・事件」の中が多いのですが、「おっ!」と思わせられるほどに冴えた演技場面にも遭遇できたことも事実です。

それだけに、彼女たちのせっかくの頑張りが、後篇の不完全燃焼的な脚本と演出により、十分に生かされ切らなかったような印象が、この物語を読み、観ることを愛する読者・観客のひとりとして大変残念に思います。
それでも最後にひとこと・・・観る価値はあります。いえ、観て欲しいです。そして印象&感想は、人それぞれです。


posted by フランキン at 00:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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