2013年10月01日

少年とウズラの卵

久しぶりに立ち寄った伊東市役所の1階ロビーで目に入ってきたのは、2列に並んだホワイトボードの壁とその裏表に沿ってやはり並べられた細長い会議テーブルの列でした。近づいてみると、ボードにはマジックインキで書かれた大小の文字が並んだ模造紙が貼られていて、テーブルの上には色も種類も大きさもまちまちな紙のファイル表紙を付けた手作りの冊子が幾冊も並べられています。「蟻はどんな食べ物がすきなのか」やら「伊豆の海岸の砂の違い」、中には「放射線と放射能」などの硬派なテーマも混じり合ったそれらのファイルは、伊東市内の小学校や中学校に通う子供たちが夏休みの間に行った「自由研究」の成果を、子供たち自身の手でまとめたものなので、もうすっかり秋らしくなってきたと感じていた僕の想いを、過ぎたばかりの今年の夏と、それを通り越してさらに過去へと飛んで、夏の盛りの中でどちらかというと宿題も何もかも貯め込みがちだった自分の少年の頃へと少しだけ引き戻してくれました。

感心しながら手に取ってみた一つ一つの研究ファイルは、じつにSense of wonder(センス・オブ・ワンダー = 美しさや不思議さに目を見張る感性)にあふれた興味深かったり楽しかったりのものばかりで、子供たちがふと目にしたモノや生き物や風景、また、テレビやラジオで見聞きにしたことの中にふと浮かんだ疑問や興味≠、子供たちなりに真っ直ぐに見つめ尽くして過ごした、夏休みの中のさらに純粋で中身の濃い数日間を感じさせるものでした。

数ページにまとめられたそれぞれの研究成果は、デジタルカメラで撮った経過写真なども添付され、例えば「酢に卵を漬けて溶かしてみる」などのように、自分の行った研究≠ェもたらした物事の変化していく様子やその経過を直に目撃したであろう子供たちのワクワク感が伝わってきます。興味をもち、疑問を感じ、それを放置せずに自分で答えを求め、やってみる・・・得られた解答に驚きを覚え、その興奮やワクワクを人に伝え語ることに楽しさ感じ、成果をまとめたノートを完成させることにより、成し遂げることの快感を経験する・・・結果だけではなく、その一連のプロセスすべてが、経験という形で後々にまで及ぶ好ましい影響を子供たちに残したのだろうなぁ〜などと感じつつ、僕は「ほぅ〜」とか「へぇ〜」とかつぶやきながら幾つものファイルを手にしては開いていくのでした。

そんな中で目にした研究をひとつ。「スーパーで売っているウズラの卵をあたためたらヒナがかえるのか?」・・・というテーマのファイル。小学3年生の男の子がお母さんとスーパーに買い物に行ってウズラの卵を見た時に興味を感じて始まった研究です。孵卵器に入れられ適温で温められるウズラの卵が数個、少年は毎日今か今かという思いを抱きながら卵の様子を写真に撮り、それを日毎の記録としてまとめているのですが、研究を終えてからまとめたものというよりも、日記のようにページに日毎に記していったものらしく、数日たっても一向に変化を見せないウズラの卵の列の写真を貼り付けたページに、「ヒナがかえると思っていた」・・・などと記されたページを目にすると、その時の落胆した少年の気持ちが素直に伝わってきます。

食用として販売されているニワトリの卵の多くは無精卵であるということは僕も知っているつもりでしたが、ウズラの卵はどうなのだろう?・・・正直、僕は答えを持っていませんでした。なのでこの小学3年生の子が始めた研究には僕も思わず興味を惹かれたのですが、「どんな小っちゃな変化だって見逃すもんか!」という意気込みで卵を見つめるノートの中の少年が日を追うごとに落胆していく様子に、僕も「あぁ、やっぱりヒナにはならないんだな」・・・と思っってしまったものです。でもやはり研究というのはやってみなけりゃ分からない!最後の最後の方のページで、「殻にヒビが入りはじめてます」・・・写真には確かによく見ないと分からない程度の微細なヒビが殻に入り、そのすぐ後には「ヒナがかえりました」・・・小さなウズラの卵の殻を破って、さらにさらに小さな身体をしたまだ真っ黒なウズラのヒナが半身を殻の外へと伸び出している写真が貼られているのに出くわしました。「ヒナがかえりました」と一言記した少年の興奮と、生まれてきたばかりのウズラのヒナに向けられた愛情とも言って善いほどに純粋な気持ちがひしと僕の胸にも伝わってくるのでした。

そうか!・・・ウズラの卵は生きているんだ!! 僕は今のこの歳になってはじめてそのことを正確に知ったのでした。そしてそれは小学3年の見知らぬ小さな少年が僕に教えてくれた真実です。少年はヒナがかえったばかりの卵の殻の内側を観察し、斑模様の外側とは異なって乳白色をした殻の内側に幾本もの稲妻のような赤い線が走っているのに気づき、その写真を添付しながら、「血管の跡が何本も見えます」・・・と、記しています。少し胸が熱くなりました。この瞬間におそらく少年は、「食べる」・・・という行為が、紛れもなく他の「生き物の命を取る」ことであり、「生きる」・・・ということは、他の多くの生命の犠牲の上に成り立っているのだということの本質を直観したに違いない・・・そう感じたのです。

その場で僕の中によみがえってきたのが直木賞を受賞した「邂逅の森」という熊谷達也の小説を数年前に読んだ時に覚えた抗いようのない立ち返りの感覚です。小説は熊を狩って「生きる(生き抜く)」マタギの男が主人公で、大正から昭和の初期にかけての、生きるには大変厳しかったであろう東北の地が舞台の物語でした。自然の中から必要なものだけ≠受け取るために命をかけてひとたび山に入れば、本当に必要なものだけを受け取るために知力を尽くして獲物と渡り合う・・・それは文字通り自分自身の手で動物の命をとることであり、手にかけたその生き物の死をまっすぐに見つめ受け止めることも意味します。熊一頭を仕留められれば家族が一冬を生きて越えられる・・・すべては与えられているものであり、何ひとつ無駄にしないという、人間の側の覚悟≠読みながら感じました。農耕民族は文化的で狩猟民族は野蛮といったステレオタイプな描かれ方をされることが多い映画やフィクションの世界で、僕はこの本の語りを通じて初めて狩猟によって生きた人々への敬意と、命を食して生きることを直視する姿勢から遥かに遠ざかり、命をいただく覚悟のないままに食生活を営む現代のありさまを痛烈に思い知らされたように記憶しています。

3年生の男の子が夏休みに行った自由研究が見せてくれたのは、「ほら、生きてるよこれ・・・」って、何のてらいも無く正直で純粋な気持ちのまま差し出された、少年に目にじっと見つめられた中で生まれた小さな命でした。こういったことにふれてみると、食事の際に口にされる「いただきます」も「ごちそうさまでした」も、単なる言葉ではないのだと思いを新たにされます。ふとした興味から行われた小さな観察・・・スーパーで売っているウズラの卵は生きてるんだ・・・少年の文字で記された自由研究の記録、「食」というものが流通と経済の問題としか語られなくなって果たしてどのくらいの時が経つのだろう。生き死にの意味での「生命」の感覚から遠ざけられた社会に僕は今生きている・・・市役所の人も疎らな1階ロビーで目にしたものが、思いがけずとても貴重なものに感じられたのでした。

シェアした動画&曲は2007年のアメリカ映画 Into the Wild のサウンドトラックに収められているEddie VedderSocietyです。物質社会に背を向けてアラスカの荒野へと分け入り、切実なまでに命を実感しようとし、望んで生きたその荒野で若くして命を落とした青年クリストファー・マッカンドレスを描いた作品で、僕はこの映画の中で、自分がどんなに君が好きでありがたいと思っているのかと語りかけながら、クリスが真っ赤な林檎をかじるシーンが大好きでした。
posted by フランキン at 14:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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