2013年09月08日

世界の中の距離と広さ

深夜の覚え書きです。少し前のことだけど、日系ブラジル人3世の女性旅行客二人に、新幹線やJR等々、電車の乗り継ぎ時刻と方法について案内する機会がありました。一人は60代、もう一人は明らかに既に70代と思われるその二人は、カタコトなのだけどきちんと意味が通じる日本語に流暢な英語とポルトガル語が混ざった言葉を駆使し、それに対してどちらの言葉にも疎い僕はもっぱらゆっくりと手振り身振りを交えた日本語でのやり取りでした。僕と全く変わらない日本人の顔を持ちながら、太平洋を越えていま目の前で異国の音声を発する二人に接しつつ、僕は戦前にあちらに移り住み動乱の時期を経験しながら世代を重ねた日系ブラジル移民の人々のことを殆ど知らない自分自身に気付き、目の前に立つ歳を経た二人の女性に対し、ごく自然な感覚として敬意が湧いてくるのを感じたのでした。

彼女たちが希望する電車のダイヤについて説明しながら、その翌日一日の行程が、伊豆から九州、そしてその日中にターンして瀬戸内の街にまで及んでいることを知り、およそ1500キロにも達する旅程を平然と一日の内に予定する60代70代の女性たちに接しながら、多分二人は日本製日本人の僕とは全く異なる距離感覚、言い換えれば世界の広さ狭さについての感覚を抱いており、きっとそれに伴って世界の見え方もずいぶん違うのだろうな〜とつくずく思ったものです。

なぜこの日系ブラジル移民の女性二人のことを思い出したのかと言うと、実はオリンピックの招致合戦についての報道がここ数日のうちにますます過熱する中、日本の東京五輪招致実現に影を落とす≠ニマスコミ上で懸念されている(この時点でこの問題について結ばれている焦点にズレを感じる)福島の原発汚染水問題について、東京がその問題の現場から相当な遠隔地に位置する都市であることを示そうとして提示された250キロという数字を目にしたからでした。ニュースの映像の中でこの数字が安全の根拠であるかのように語られた時に僕が感じたのは、日本の人々というのは(もちろん自分も含め)自らの主観を確定する要素について、何とも自己本位な自信を持ち易い人間たちなのだな〜ということです。

あの日系ブラジル移民の女性二人は、250キロという距離を、果たして遠い・・・と感じるだろうか? それとも近い・・・と感じるだろうか? 世界にはひとつの物事についても実にたくさんの感覚と異なる受け止め方、多種多様な理解の仕方があるのだと、今しみじみ思います。

発生中の問題を日本は完全にコントロールしており、被害などは絶対に起きない・・・東京は世界一安全な都市。

オリンピック東京招致のプレゼンテーションの模様を伝えるニュース映像を見るにつけ、個人的には、オリンピックが東京で開催されるという出来事を僕も体験してみたいともちろん思いながらも、その実現はすべてに優先する大義であり、その成就を切望するあまり、現実に起きている未解決の問題の重大さから心がますます逸らされ、小さく小さく見つめようとする方向へと誘導されているような気がして、過熱する盛り上がりの中に、真に迫った割り切れなさを今夜は同時に感じてしまう夜なのでした。さて、訪れる朝はどんな朝になるのでしょうね。
posted by フランキン at 03:02| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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