2011年10月16日

肺呼吸のまま海に潜り、時々丘に上がっては深呼吸するようなFBですみません。

これはFBについての自分の関わり方についてのあくまで個人的なメモです。充分に使いこなしていない僕ですが、とある友人がどんどん流れていくFacebookのウォールに反応しきれていない自分を悩んでいたようなので、そこに思うところをコメントしたものですが、この時間が、自分自身の思いの整理にも少し役立ちました。あくまで使いこなしていない人間の長ぁ〜いつぶやきです。

いろいろと感じるところは共通してますね。ネットに入るということは僕にとって肺呼吸のまま海に潜り続けているようなもの・・・なので定期的に息苦しくなって海面に顔を出し呼吸するようにしてネットから身を遠ざけたりしています。ですからその間に投稿された友人たちの記事は当然気がつかないまま過ぎ去ってしまうこともあります。

基本的に、ネット環境に いつ 入るか?≠ヘネット利用者・・・要するにFacebookやTwitterなどのSNSの各ユーザーの自由≠ナあると考えているのですが、当然その自由は自分以外のすべてのユーザーが(もちろん真っ先に里美さんも)同じように持っているはずなのだと思います。なので初めからすべての投稿を閲覧することは事実上不可能なことですし、自分が書き込む時にも、すべての人に見ていただくことは高望み過ぎること・・・と考えています。なので自分の投稿に何ら反応がいただけなかったとしても、それはそれであり得ることですし、仕方がない、ある意味既にFacebookを利用する上での共通同意事項だとも思っています。Facebook上で大切な友人に出会うことも・・・心に触れる投稿に巡り会って思わずコメントをしたくなるのも、実はすべては基本的に一期一会で、そんな気づいた時の巡り合わせ≠大切にしたいと思っています。

里美さんは優しさとともに強い情熱もお持ちの方なので僕ほどには割り切れず、友人たちの想いや心を本当に大切にして、そのひとつひとつに応えていきたいとお感じになるのでしょうね。確かにそれは、里美さんが音楽を人々にふるまう時と似ています。ライヴでのUNOの音楽の届け方は、本当にひとりひとりの心にふれるもので、だからこそライヴのさなかに自分の心の奥底にあるものを里美さんの紡ぐ音の並びにつながりを感じ、涙を流す人々の姿を多くみることもできるのでしょう。

でも考えてみると、その人々に演奏を聴いていただけたのは、その演奏の場にその人が居てくれたからに他ならない・・・と思います。その場にいない人には里美さんの音楽は届きませんし、逆に里美さんがライヴのステージにいないならば、其処にいかに大勢の人々が集まっていたとしても、やはりその音楽との出会いを人々は経験できません。これはアナログやデジタル、リアルとバーチャル・・・どの世界でも同じ事・・・だと思います。それはとても自然なことだと思いますし、やはりそこには、一期一会に価値を感じるかどうか?という、その人のスタンスが関係しています。

無数の人々が自由に行き交うFacebookのような環境では、ひとりひとりの行為(発言・アクティビティ)のすべてを目にして、そのすべてに応える・・・というのは不可能です。それはちょっと大げさに表現すれば、人間がひとつの生涯でこの世界を味わい尽くすことが出来ないのと同じです。もしそれを望むとすれば、その人はその場にいる∞いない≠選択する自由を失うことになりますし、それを他の人々に期待するとすれば、その人々に強要することにもなってしまいます。

ひとつ昔の格言を思い出しました。「自分にして欲しいと思うことは、他の人にも同じようにしなさい」・・・これは昔から黄金律と呼ばれているものです。しかしこの言葉にはひとつ皮肉な気づきが含まれています。他の人にしてあげたい・・・と思っていることは、もしかしたら「自分がして欲しい」と思っていることの裏返しかもしれない・・・ということです。誰かに何かをする・・・何かを与える・・・という行為はとても尊いものですが、でもその衝動の背後に何があるのか?ということを時々ふり返らないと、どんな気配りも親切も愛情もいつのまにかその対象となる人にとっては重荷にさえなってしまうことだってあり得ます。

Facebookですべての投稿に応えたい・・・お気持ちはとてもよく分かります。でももしかしたらそれは、自分がして欲しいと、心の奥底で望んでいること・・・と言うことも出来るかもしれません。それはすべての人に音楽を届けたい・・・と願うのと似ています。でもそれは不可能ですし、それを望めば自分と他の人々の自由を侵してしまうことにもなりかねません。ネットでの出会いやつながりは、あくまで一期一会なのだと思うこと・・・それは、そこにいる人すべてが楽になる≠アとにつながると思っています。Facebookでの誰かとのやり取りに、その人とのすべての関係性を期待してはなりません。基本的にFacebookは、ウォール(wall)・・・落書きや伝言を貼り付ける壁≠ノ過ぎないと思ってます。目に留まることもあるし、いつのまにか通り過ぎて見過ごしてしまうことだってあります。そして其処には常に、お互い様≠ニいう自由な関係が伴っています。

里美さんの温かな気持ち・・・それは自然なものですし、もしかしたらネット環境を自由に泳ぎ回るには通過しなければならないものなのかもしれません。でも、それはネットだけではなくて、リアルな世界でも殆ど同じです。オビナタさんが、「自分がどのようにすれば、楽しめるのか?」を模索した・・・と仰ってますが、その通りだと思います。「楽しむこと」=「楽になること」・・・重荷を感じずに泳ぎ回ること・・・それを意識してみませんか?そのためには、自分自身の心の中を探り、「いったい自分はなにを此処に期待しているのか(或いはし過ぎているのか)?」・・・ということを確認してみる必要があるかもしれませんね。ネット上での息苦しさは、自分の心の裏がえしという場合がしばしばあると、自分の経験からも思いますし・・・。Facebookは今や勢いよく進化しながらたくさんの人々を巻き込んでいますが、心の何処かに「たかがFB」・・・「所詮はFBなんて」というような醒めた思いも持っていて良いのではと思います。

肺呼吸のまま潜り続けるのはキツイです。どっぷりとネットの海に浸かってエラ呼吸になれない(なれなくてぜんぜんOK)なら、たまには自分を切り離して丘にあがって深呼吸しましょう。そしてその時には、他の人々も別の丘に上がって深呼吸してるかもしれない・・・と、サラリと考えることにしませんか?基本的に、ネット環境に いつ 入るか?≠ヘネット利用者・・・要するにFacebookやTwitterなどのSNSの各ユーザーの自由≠ナあると考えているのですが、当然その自由は自分以外のすべてのユーザーが(もちろん真っ先に里美さんも)同じように持っているはずなのだと思います。なので初めからすべての投稿を閲覧することは事実上不可能なことですし、自分が書き込む時にも、すべての人に見ていただくことは高望み過ぎること・・・と考えています。なので自分の投稿に何ら反応がいただけなかったとしても、それはそれであり得ることですし、仕方がない、ある意味既にFacebookを利用する上での共通同意事項だとも思っています。Facebook上で大切な友人に出会うことも・・・心に触れる投稿に巡り会って思わずコメントをしたくなるのも、実はすべては基本的に一期一会で、そんな気づいた時の巡り合わせ≠大切にしたいと思っています。

里美さんは優しさとともに強い情熱もお持ちの方なので僕ほどには割り切れず、友人たちの想いや心を本当に大切にして、そのひとつひとつに応えていきたいとお感じになるのでしょうね。確かにそれは、里美さんが音楽を人々にふるまう時と似ています。ライヴでのUNOの音楽の届け方は、本当にひとりひとりの心にふれるもので、だからこそライヴのさなかに自分の心の奥底にあるものを里美さんの紡ぐ音の並びにつながりを感じ、涙を流す人々の姿を多くみることもできるのでしょう。

でも考えてみると、その人々に演奏を聴いていただけたのは、その演奏の場にその人が居てくれたからに他ならない・・・と思います。その場にいない人には里美さんの音楽は届きませんし、逆に里美さんがライヴのステージにいないならば、其処にいかに大勢の人々が集まっていたとしても、やはりその音楽との出会いを人々は経験できません。これはアナログやデジタル、リアルとバーチャル・・・どの世界でも同じ事・・・だと思います。それはとても自然なことだと思いますし、やはりそこには、一期一会に価値を感じるかどうか?という、その人のスタンスが関係しています。

無数の人々が自由に行き交うFacebookのような環境では、ひとりひとりの行為(発言・アクティビティ)のすべてを目にして、そのすべてに応える・・・というのは不可能です。それはちょっと大げさに表現すれば、人間がひとつの生涯でこの世界を味わい尽くすことが出来ないのと同じです。もしそれを望むとすれば、その人はその場にいる∞いない≠選択する自由を失うことになりますし、それを他の人々に期待するとすれば、その人々に強要することにもなってしまいます。

ひとつ昔の格言を思い出しました。「自分にして欲しいと思うことは、他の人にも同じようにしなさい」・・・これは昔から黄金律と呼ばれているものです。しかしこの言葉にはひとつ皮肉な気づきが含まれています。他の人にしてあげたい・・・と思っていることは、もしかしたら「自分がして欲しい」と思っていることの裏返しかもしれない・・・ということです。誰かに何かをする・・・何かを与える・・・という行為はとても尊いものですが、でもその衝動の背後に何があるのか?ということを時々ふり返らないと、どんな気配りも親切も愛情もいつのまにかその対象となる人にとっては重荷にさえなってしまうことだってあり得ます。

Facebookですべての投稿に応えたい・・・お気持ちはとてもよく分かります。でももしかしたらそれは、自分がして欲しいと、心の奥底で望んでいること・・・と言うことも出来るかもしれません。それはすべての人に音楽を届けたい・・・と願うのと似ています。でもそれは不可能ですし、それを望めば自分と他の人々の自由を侵してしまうことにもなりかねません。ネットでの出会いやつながりは、あくまで一期一会なのだと思うこと・・・それは、そこにいる人すべてが楽になる≠アとにつながると思っています。Facebookでの誰かとのやり取りに、その人とのすべての関係性を期待してはなりません。基本的にFacebookは、ウォール(wall)・・・落書きや伝言を貼り付ける壁≠ノ過ぎないと思ってます。目に留まることもあるし、いつのまにか通り過ぎて見過ごしてしまうことだってあります。そして其処には常に、お互い様≠ニいう自由な関係が伴っています。

里美さんの温かな気持ち・・・それは自然なものですし、もしかしたらネット環境を自由に泳ぎ回るには通過しなければならないものなのかもしれません。でも、それはネットだけではなくて、リアルな世界でも殆ど同じです。オビナタさんが、「自分がどのようにすれば、楽しめるのか?」を模索した・・・と仰ってますが、その通りだと思います。「楽しむこと」=「楽になること」・・・重荷を感じずに泳ぎ回ること・・・それを意識してみませんか?そのためには、自分自身の心の中を探り、「いったい自分はなにを此処に期待しているのか(或いはし過ぎているのか)?」・・・ということを確認してみる必要があるかもしれませんね。ネット上での息苦しさは、自分の心の裏がえしという場合がしばしばあると、自分の経験からも思いますし・・・。Facebookは今や勢いよく進化しながらたくさんの人々を巻き込んでいますが、心の何処かに「たかがFB」・・・「所詮はFBなんて」というような醒めた思いも持っていて良いのではと思います。

肺呼吸のまま潜り続けるのはキツイです。どっぷりとネットの海に浸かってエラ呼吸になれない(なれなくてぜんぜんOK)なら、たまには自分を切り離して丘にあがって深呼吸しましょう。そしてその時には、他の人々も別の丘に上がって深呼吸してるかもしれない・・・と、サラリと考えることにしませんか?
posted by フランキン at 12:11| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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