2011年05月20日

荒ぶる魔神とジャック・ゴデル氏の終わらない憂鬱

このブログ記事は個人的な記録です。
福島第1原発の事故当初から感じていた違和感について、
個人的に書き残しておきたいと思ったゆえの記録です。
ここに書き表すことが正しいと主張するつもりはありません。
これは、ただ僕の中に生じた感覚であり、主観的なものです。

荒ぶる魔神とジャック・ゴデル氏の終わらない憂鬱

1979年3月16日に公開されたアメリカ映画「チャイナシンドローム(The China Syndrome)」は、原子力発電所における深刻な事故が発生した場合、それがどれほどの破局をもたらす恐れがあるのか?強く警告する社会派サスペンス映画でした。現実にこの映画の公開からわずかに12日後に、映画が想定したものと酷似したスリーマイル島原子力発電所事故が発生し、皮肉にも、映画が警告したような事態はいつでも現実のものとして起こり得るのだということが証明されたような形になってしまいました。

僕はこの映画を、80年代の後半に出会い、その時期の短い期間に実は合計で13回見ています。それはこの映画を別の人に一緒にも見てもらい、描かれていることについて友人たちそれぞれがどんな印象を抱くものかを見てみたいと思ったからです。当時の僕は決して原発に反対する考えを強く持っていたわけではなく、どちらかというと無関心でした。しかしこの映画を初めて見た時に、ひとたび原発事故が発生するならば、それは大変な破局を周辺に住む人たちに、ひいては人類全体にさえもたらす恐れがあるのだと感じ、このことについて無関心でいてはいけないのだと思ったのです。

物語はしばしば、現実に先行して示唆を与えます。「チャイナシンドローム」の中で、舞台となるペンタナ原子力発電所の制御室長ジャック・ゴデルを演じた名優ジャック・レモンは、この映画の中で、トラブルで突然停止した原子炉の冷却水位が低下し、まさにいま炉心が露出してしまうかもしれないという緊急事態に面した時の危機感を、迫真の演技で表現しました。原発というものについて何の知識も持っていなかった僕は、緊迫感と恐慌に侵蝕されそうになりながらも、一か八かの賭けのような決断と判断を求められる制御室長ゴデルに扮するジャック・レモンのこの演技により、「炉心が露出する」という言葉によって表現される事態が、原発にとっていかに破滅的なものであり、それゆえに、絶対、何としても回避しなけなければならない事態なのだと、強く印象に残したのです。

映画「チャイナシンドローム」のワンシーン
トラブル発生時、炉心冷却水の水位計の誤作動に気づき、
炉心露出の恐れに緊迫するベンタナ原発制御室とジャック・ゴデル



3月11日の午後に発生した東日本大震災。この世のものとも思えないような大津波の被害を伝えるニュースとともに、電気と光を失った被災地の様子が充分には分からず、被災地に住んでいるはずの親戚たち(宮城県名取市)への連絡の術もない混迷した情勢の中、テレビのニュースを通じて、福島第1原子力発電所が大震災の影響で緊急停止したという事実が報道されました。そのニュースには「冷却水の水位の低下」「炉心が露出する恐れ」という言葉が確かに含まれており、それにより、今、あの原発で何が起きているのか?ということは、僕の中では極めて明白に思えました。あの「チャイナシンドローム」の中でジャック・レモン演ずるゴデル氏を追い詰めた事態の様子が目に浮かぶと同時に、「これは大変だ」とぞっとしたのを憶えています。

しかしあくまでテレビのニュースは、電源喪失によって冷却水の水位が保てず、炉心が露出しているかもしれない・・・という事態の深刻さではなく、この種の事態において、東京電力は予め原子力災害対策特別措置法によって定められた報告を政府にしたに過ぎず、あたかも充分な対応が成されているかのような印象に留めたものであり、枝野官房長官による政府記者会見でも、放射能が外に漏れ出すような事態ではないと明言していました。「炉心露出」の恐れという決定的な危機を想起させる表現を含んだニュースにも関わらず、事態を説明する政府・原子力保安院・マスコミに登場する学者や専門家たちの言葉は、非常に楽観的に感じられ、強い違和感がありました。おそらく多くの人々が同様の印象を抱いたと思いますが、その時点で、本当の事実は伝えられていないのだと確信しました。この日の自分のTwitterでのつぶやきは、自分自身の中に生じている危機感と「公式」の発表との間に横たわる感触の乖離を、もしもの場合の為に残しておこうと思ったからでした。

《福島第一原発の原子炉の冷却不全による緊急事態宣言のというのは、冷却水不足による炉心露出の危機を描いた映画「チャイナシンドローム」や公開12日後に実際に起きたスリーマイル島原子炉事故を思い起こさせられる事態に感じる。そういう事態を回避するために対処が巧く為されているのだと信じたい。》(3月11日のTwitterより)
http://twitter.com/#!/soralisfran/status/46164433751392256

間違いなく起きている電源喪失という事態から単純に考えても、ポンプ停止・冷却水位低下・炉心露出、炉心溶融(メルトダウン)という、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な単純な科学的想定を、なぜか視野の外に外にと置かせようとするかのようなニュースの内容、さらには他の情報をデマと決めつけ、「公式」の見解・発表のみを一方的(盲目的)に信頼することを求め、かつ進行中の事態にも関わらず楽観的説明に終始する政府・マスコミの姿勢の中に、周辺住民、さらには将来に渡ってのすべての日本国民の人命に対する、「誠実さの放棄」という、重大な姿勢の誤りを感じ、進行拡大中の原発事故の深刻さと同じほど、それに関わる責任ある人々の対応力と人としての信頼性の欠如に危機感を覚えました。

これを書いている今日の日付は5月17日(火)です。福島第1原発の大事故発生から、すでに2ヶ月以上が経過しています。事故発生から今に至るまで、繰り返されてきた「安全」「大丈夫」という主旨の公式発表は、その殆どが事実とは異なるものであったということが次々と明らかになり、数日前には、政府や東電が口をそろえて、起きてはいない言っていた「メルトダウン」が、福島第1原発の1号機で実際には起きていたことを東電が「認めた」という形で明らかにされ、さらには他の複数の原子炉でも起きていたということも事実として報道されはじめました。

「認めた」ということは、指摘されていたとしても認めていなかった時間があるということであり、その間に、本来であれば自分と自分の家族の生命を守るために取るべき行動を起こすための、貴重な機会を人々から奪ってしまったことを意味していると僕は思っています。海外の政府による日本国内に滞在中の自国民に対する避難・日本国外待避等の措置も行われてきました。後日その避難範囲を縮小した政府もありますが、事故初期におけるそれら海外政府の対応は、日本政府のそれよりも適切であったことは言うまでもありません。原子炉建家の爆発も含め、激しく放射性物質の拡散の恐れがあったあの時期に、日本と他国政府は別・・・というような態度を示していた日本政府の対応はまさに人命軽視であり、大事を取る・・・という当たり前の予防的原則を無視した無責任な姿勢への固執によって、周辺住民の多くが望まない被爆を強いられたであろうことを考えると悲しみを感じます。

ずっと以前に何度も繰り返し見た「チャイナシンドローム」はフィクションであり、メルトダウンそのものの発生を描いたものではありません。しかし原発が様々な都合を抱えた人間の手によって作られたものであり、それを運営・利用する人間の社会システムに内包される様々な利害が存在する以上、その都合や不完全さにより大事故はいつでも起きる恐れがあり、ひとたび事故が起きれば、それは人類はもとより地球とそこに生きるすべての生き物への脅威となり得るものなのだというメッセージを伝えています。

先に述べましたが、僕はもともとは原発に対する反対意見をもっていたわけではありません。しかし、2007年の夏の新潟県中越沖地震の際に発生した柏崎刈羽原子力発電所の深刻な事故をうけて、元々危険なはずのものに「安全」という言葉を付して説明されることに強い疑問を感じはじめました。原発は安全なものなのではなく危険なものである故に、安全性を少しでも高めるために数々の策が講じられているのであり、それらの策もまた決して完全なものではないのだということを、政府も電力会社も説明のための大前提として提示していなければならないのだと、あの時に強く感じたのです。原発についての評価のデフォルトは、「安全」ではなく「危険」というのが正確なのです。あの事故が起きた時にやはり僕が思い起こしたのが、「チャイナシンドローム」の中でメルトダウン事故寸前のところで苦闘するジャック・レモン演じるゴデル制御室長の姿でした。あの恐慌をきたす事態よりもさらに大きな事故が、まさに今この日本国内で実際に起きているのであり、現在も収束するどころかなお深刻さを増して脅威の度を強めているのです。

Facebook内の関連ノート :
「4年前の日記と、議論から見えてくるもの」
記事に対していただいたコメントも表示されています。

http://www.facebook.com/note.php?note_id=161254843933551

当ブログ内の関連記事 :
「デフォルトは「危険」ということだと思う」
コメントは表示されません。

http://frankin.seesaa.net/article/48315184.html

この国には良心がある・・・そう信じていた日本には、実はさまざまなしがらみに囚われた別の顔があり、その顔の半分は闇に属している・・・この原発震災により、その正体の一部が顕わになってしまったという印象を、僕はどうしても否めずにいます。この度の大事故の発生と同時に軒並み曖昧になってしまった各種メディアによる報道や、危機感を抱かせるデータや展望について考えることを「デマに惑わされるな」というスローガンによって封じ込め、大事故の現場となってしまった福島県をはじめ、この日本という国の中でそれぞれに生を受けた土地に生き続けることを希望する人々の自然な感情を逆手に利用した、できるだけ事故を過小評価して国民に見せようとする風潮を、最も信頼性が求められるはずの政府に関わる人々が助長している限り、今直面している事態から受ける被害と、将来にわたって損なわれるかもしれない人命や無数の人生が受ける影響の実態は、いつまでも明確にはならないだろうと感じます。

原発事故は現実に起きたものです。放射性物質の拡散により、農作物や酪農産物に被害が及んでいるのも事実です。そして何よりも現実に生活環境が汚染され、避難または避難に備えなければならない人々が多数に及んでいるのも事実です。しかし、日本政府が会見において幾度も繰り返してきた「直ちに及ぶもの」以外の悪影響が、現実に国民と国土に及んだということが事実として判明し、贖い切ることなど決して叶わないであろう被害に対する補償についても、今後数十年、あるいは百年以上の時間が経過し、今が歴史として整理される頃に初めて明確になってくるのかももしれません。

僕はどうしてこんな悲観的に感じられるようななブログ記事を書いているのだろう。僕は科学者ではない・・・専門知識があるわけでもない・・・原発廃止を語る時に必ず直面する、「では電力はどうするんだ」・・・という問いに対しても即解決に至るようなアイディアなど当然持っていない。でも、だからといって、原発から脱する社会をより強く希望することはナンセンスだとは思いません。原発に反対すると言う姿勢や行為は、感情的・短絡的なものに過ぎない、現実を見据えていない、経済が停滞し日本は再起できなくなる・・・等々、様々な意見やハードルがあることは理解しています。では、こうしたハードルを乗り越え、原発への依存から脱却する方向と方法を模索するのは、原発に反対している人たちだけの責任ではなく、原発が必要であると考えている人々にも同様にいま発生している責任ではないでしょうか?それは、この日本の経済の成長や豊かさをどうするのか・・・という観点だけではなく、もしかするともっと重要不可欠な点として、我々の子供たち、孫たち、その先の子供たちが、人としての生を健やかに生きることのできる土壌と海と空気を、果たして本当に残してあげられるのか?という観点も中心になければなりません。

福島第1原子力発電所の大事故という、先の見えない危機に向き合い続けなければならなくなった日本人。事故原発周辺の住民の皆さんが直面している異常な事態と悲しみは察するに余りあります。希望は当然抱きながらも、この貴重な国土と人々の生が今までにない仕方で大きく損なわれてしまったのだということは、オブラードに包むことなく認めなければならないのでしょう。原発事故という、人の命にこれからも影を落としつづけるであろう現実の脅威、そして原発事故が起きた、起こした国という、新たに加えられた日本への歴史的認識。世界の中でこれから日本が担わなければならないものの重さは計り知れません。この重大時に、自らの存在意義を充分に発揮することができず、根拠が希薄で凡そ科学的とはいえない希望的観測を事実として報道してきた各種メディアの責任は、問われなければならないと思います。

映画「チャイナシンドローム」の中で、自らの人生そのものであり貴重な職場でもあったペンタナ原子力発電所に重大な欠陥があるという事実を見出してしまったジャック・ゴデルは、「安全」と太鼓判を圧されていたペンタナ原発が事故を起こす恐れがあることを警告する決意をします。そのことからすれば彼はヒーローであるといえます。また、巨大な利権構造と人命さえ軽視して保たれていくリスクを孕んだ公共の利益の前に、人生を狂わされる犠牲者でもあります。ひとたび事故が発生すれば、どんなに捧げ物を捧げても鎮まることのない、荒ぶる魔神のような存在と化してしまう原発が内に秘めた真実の陰に、いったいどれほどのヒーローと犠牲者がいるのだろうか?ようやく世間は、そして我々は、それに気づくことのできる機会に立っているのだと思います。そしてそれは、第一に考えなければならないものは一体なんであったのか?見えなくなっていたひとりひとりの現代の人間にとり、架空の人物とはいえ、おそらく世界中に同様の人物がいるであろう、ジャック・ゴデルの経験が示唆することを、逸することなく受け止め、考える時期なのだと僕は思います。
posted by フランキン at 02:20| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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