2011年04月15日

スフィア(Sphere=球体)・・・城ヶ崎で見つめた宇宙のミニチュア

今まで見たこともないような不思議なものが見れる・・・ということで、4月3日の日曜日、朝9時に伊豆の仲間たち数人と集合したのは、城ヶ崎はいがいが根の駐車場。伊豆の自然をこよなく愛するティム・マクリーンさんのリードで岩場に向かうにあたって、自然道の入り口に立つ古い樹の幹に手を当てて挨拶をした。ここから先は人間の世界と自然の世界が交じり合うところ、敬意を抱きながら通らせてもらう。

伊豆半島は元々はもっと南方に位置していた孤島であって、南から長い時を経て本州に接し半島を成したのだという。聞くところによれば、地質も生態系も、後から陸続きになったことを示す特異性が伊豆には豊富に見られるらしい。調べれば調べるほどこの伊豆という地域の面白さが感じられる。城ヶ崎を巡る道を歩きながら、僕らを取り巻き上から見下ろしてくる木々の肌に手を触れ、足の下にある岩塊に意識を向けてみる。
3700年前に噴火した大室山は、とっても平和な形です。 4月10日の夜・・・イベントで大室山の夜はキャンドルナイトでした。
この平和な形をした大室山が3700年前に噴火して城ヶ崎ができた。

およそ3700年前に噴火した大室山から流れ出した溶岩が海に達して形成された岩塊からなる地形・・・時を越えて今そこを歩いているという感覚は、生き物としての自分の小ささを突きつけてくる。多分いま目にしている木々の多くは自分よりも前から存在し、ずっと地に根を張りながらこの岩と海の風景を見つめてきた。人が往き来し道を付ける遙か以前から、足下の岩塊はほぼ今と同じ姿を成していて、それに比べればひとりの人間などほんのひと時の存在でしかないということを思い知らされる。

自分という存在の小ささを感じながら、それでも何となくまわりの風景から温もりのようなものを感じるのは、植物も岩も海の風景も、そのどれもが、今ここにいる僕という一つの生き物について、少しも異を唱えることがないのだと肌で感じるからかもしれない。歓迎されている・・・と言ってしまえば思い上がりになるが少なくとも自然は、そこに分け入るもの、そこに在るものを何も否定しない気がする。言い換えれば、えこひいきをしないということかもしれない。人に認められることや財を成すこと、あわよくば名を挙げようと拘りがちな人間は、自然の風景に身を置く時に、自分の中の素が周りに呼応し始めていることに気づくのだろう。認められようとやっきになる必要がないほどに自然はそれぞれの在るがままをそのまま受け止めてくれている。これは実に清々しい感覚だ。この感覚を人間は取り戻すべく時に自然の中に入ることは、そうしない時よりもずっとバランスを保って日々を生きることが出来るような気がする。

城ヶ崎の海へと通じる道 城ヶ崎の岩場は溶岩だらけ・・・
城ヶ崎の海へと通じる道・・・やがて溶岩でできた岩場へ

岩壁沿いの道は木々が生い茂り、すぐそこにある切り立った岩壁を感じさせない。ただはるか下のほうで岩に叩きつける波のドドォーーーン!という音だけが、このすぐ下に海があることを思い起こさせる。幾つかのアップダウンを通り越し、やがて木々を透かした向こうに海へと突きだしている岩棚のような地形が目の前に現れる。ここが今日の目的地だ。遙か昔に大室山の火口から何キロメートルも流れて来てこの海へと注ぎ、おそらく相当な勢いで水蒸気の煙と破裂音を上げながら徐々に冷えていった溶岩の塊により形作られた切り立った断崖・・・少し曇った空の下、黒ずんだ岩の下のほうに、光を集めて蒼白く波立つ海が見える。

かんのん浜とと呼ばれるこの場所に、人知れず不思議なものがあるのだと聞いたのは昨年の夏の終わり頃だっただろうか。今日案内をしてくれているティム・マクリーンさんから初めて聞いたのがはじまりだった。その時見せてくれた写真に写っていた不思議な球体に、いつか是非この目で見、手で触れてみたいと思った。それがこの岩場の何処かに隠れるようにしてポッカリと口を開けているというポットホール(鍋の穴の意)・・・そしてその中に在るという不思議な球体だ。

断崖から海を見下ろしたところに・・・ あそこまで行ってみますか?
断崖から海を見下ろしたところに・・・丸い形が!?

「ほら、あそこに・・・」ティムさんが指を指す下方へと目を向けてみると、切り立った岩と岩のすき間にできた穴があって、その中に滑らかなツヤを帯びた丸い形の岩らしきものが確かに見える。「ホントだ!」と思わず声をあげてしまうほど、完全な球に見える。「降りて近くから見てみましょう」とティムさんが言い、さらに下のほうへと波のしぶきがかかる球体のところまでおっかなびっくり降りてみる。降りたら登るのが大変かも・・・などと思いつつも、好奇心にかられて一緒に来た全員が球体のそばまで降りていった。実際に球体をこんなに近づいて目の当たりにし、手で触れてみると、その滑らかな感触に「おお〜!」とつい感嘆の声がもれてしまう。すぐそばでズバン!と音をたてて砕ける波のしぶきも飛んでくるゴツゴツした岩ばかりの風景の中に、潤った眼球のようなこの球体は不思議な雰囲気をまとってそこにあった。

スフィア(Sphere=球体)・・・発見! 自然が形造った完全な球体・・・
スフィア・・・自然が形造った完全な球体・・・

「こっちには子供がいますよ」と、数メートル離れたもうひとつの岩の裂け目をティムさんが指を指す。少し小さめのその穴を覗き込んで見ると、なるほどもうひとつ確かにある・・・でももっと小さな球体だ。大きいほうの球体の直径は優に80センチはある。それに比較するともうひとつの方は小さくて、30センチほどの直径だろうか。「地球と月の関係のようだな・・・ふとそんなことが頭に浮かんだ。銀河のように広い海と陸の狭間で、数千年に渡ってガランガランと波に洗われながら研がれ、すっかり丸い形となった不思議な2つの丸い物体・・・これは地球という惑星の形成を象徴する自然のミラクルだ。

球体に近づくネロリさん ティム・マクリーン氏と不思議な球体
近づいてみるとかなり大きな球体であると分かる。手で触れてみる・・・

これまでに視野に入ってきた幾つの石や岩に僕は目を留めただろうか。そう考えてみると不思議なものだ。伊豆の岩場という自然の中で不自然に感じるほどの存在感を発する岩石の球体の前に立つ・・・こういう瞬間というのはひとつの出会いなのであって、命に恵まれつつも限られた時間の内に束の間生きる人間と、時に囚われずに存在しつづけてきたものとの邂逅なのだ。今日、僕がこの岩石に近づき、しゃがんでその滑らかな肌に手を触れたという事実は、この丸い岩からすれば、どれほどの意味を為す出来事と果たして言えるだろうか?こういう場所に立ってみると、自分とこの岩についての今までどこにもなかったはずの関係性なども考え始めてしまう。たぶんこの岩は昔はもう少し大きかったはずで、それが歳月とともにこのホールの中で波に洗われて今の大きさと形になった。僕はその過程にほんの一瞬だけ接したに過ぎない。確かに言えるひとつのことは、今日の僕と同じように海の方へと岩場を降り、このポットホールまで来て寸分違わずこの同じ場所立ち、この球体に手を当てた人は数千年の時間の中で幾人もいたことだろう・・・ということだ。今はもういないその人たちが此処でどんな想いを抱いたのか? 分かるはずのないことをわずかに感じ取り、時を越えて共有しているような気までしてくる。

近づくとやはりデカイ!!触ってみるととっても滑らか! 少し小さめのもうひとつの球体・・・ふたつは地球と月のような関係に?
まるで地球と月のよう・・・宇宙の創生を見つめてるような気がしてくる。

この日、ポットホールまで案内をしてくれたティム・マクリーンさんは、自分は岩の球体のことを「ガイアの石と呼んでいる」と言っていた。ガイアとはギリシャ神話に出てくる大地の女神のことで、まぎれもなく地球という惑星と同一の存在だ。そして神々の多くはもとより、万物、そして人間も遠くその血をひいているのだという。実際にこのスフィア(Sphere=球体)を目にするなら、誰もが無理なく自然に地球のイメージを重ねることだろう。そして砕け散る波をして数千年をかけてこの岩を研磨し見事な球体へと変貌させた海に、宇宙を感じることだろう。まさか伊豆の海を前にして溶岩でできた大地の端に立ち、宇宙と出会うとは!

もしかしたら数千年後にはこの岩たちも・・・!?
ここにあるのはまだ途中なのかな?

個々の人間が生涯で経験することのすべては、それがどれほど波瀾万丈な出来事の連続であったとしても、地球的な観点から見ればごく小さなことに過ぎない。宇宙的な観点に立てばさらに増して無に等しいとさえ言えるかもしれない。人間がいてもいなくても、この地球という星はなんの不自由も不都合もなく存在しつづけることができる。ガイアとも呼ばれるこの地球には、科学者たちが他の天体にも生命はあるのだと願望を込めて探し求めてやまない生命の「痕跡」などという微々たるものではなく、海にも山にも空や地中にさえも、まさに生命力に溢れた無数の生き物が存在しそれぞれの生を謳歌している。この岩場に来るために通り抜けてきた木々が生い茂る道で感じたのと同様に、自然はその無数の生き物のどれに対しても異を唱えることはないし優遇することもない。だからすべての生き物はこの地球のどこにいても、誰にも媚びを売る必要もなく、そのものならではの「らしさ」をもって生きている。鳥たちは鳥らしく、犬や猫、牛や馬たちもそれらしく、魚たちも魚らしく・・・というようにだ。

では人間らしさ・・・とは、どんなものだろう?他の生き物たちと同じような意味での、人の本来とは一体どういうことを指して「これがそうだ」と言えるのだろう?それはまさしく、この地球という星に生きるべく初めから持っているはずの感覚を解き放ち、自然との折り合いを受け入れて生きることにつながっていくような気がする。岩場に立ち、ガイアの石に手で触れている時・・・そこには波と風の音しか存在しなかった。それで充分に必要は満たされ、此処にいることの意味が感じられる。その他のものは何ひとつ要らないし、日常の事々の一部がそこにあったとすればそれは雑音に過ぎないものとなっていたことだろう。僕らはそんな雑音を発する仕組みやしがらみの中に日々を置いているのだということに、そろそろもう気づかなければいけないのだと思う。

岩壁に立ち水平線にカメラを向けるネロリさん 海を覗き込んでみると・・・わお!!
人は時に遠くへと視線を向けてみるべき・・・海が近い!

僕は時々思う。もともと人間はこの地に生き続けるために必要なものすべてを、自然の中に見いだしてきたのではないだろうか。空気であれ水や食物や他のなんであれ、生きていくのに必要なものや、それらを得るために人がこの地に関わって果たすべき役割は、自然の中にはじめから用意されていたのだと思う。もちろん、人間製の便利さの追求や文明の享受、社会の都合の良さやそこから拓ける個人的なチャンスや成果を得るための努力を否定するつもりは僕には毛頭ない。でも、豊かさと勘違いされたまま、本来の必要を満たす以上のものまでもがあたかも欠かしてはならない絶対に必要なものであるかのように人間の生に入り込み、それらをどれだけ効率的に且つ多くを享受することが出来ているかということが、人生の成功を測る尺度の中心であるかのような風潮に、僕は違和感を覚えてしまう。もしかしたら今の時代の社会は、不可欠なものに見せかけられた多くの余分なモノや、じつは厄介なモノが、数多く幾重にも築き上げて形作られてきているとも言えるのではないだろうか?それらは人の幸福に全くとは言わないまでも、充分に資するものとは言えず、むしろ個人個人が自覚しているべき本当に必要なこと・・・この地球という生命に溢れた惑星と、その環境を享受して生きている人間との関係性を悟り、認識することを、多くの場合に阻んできてしまっているのでは?・・・と僕は思う。

まるで人が丹念に磨いて作ったかのようにも思える球体・・・じつは一度も人の手がかけられたことはなく、人間の時間に置き換えればまさに幾世代にもわたる時間をかけ、伊豆の自然こそが研磨し形創ったあのスフィアを後にして、木々の間を抜けて歩き元の場所に僕らは戻った。岩場から駐車場へつながる木陰の道から出るにあたり、その入り口に立つ樹に再び手を当てながら心の中で「ありがとう」・・・と言ってみた。日常からはずれた場所に身を置いて、海に近づき岩に触れ遠くを見つめてみるだけで、人は自分の内側に、そうしなければ感じられなかったかもしれない幾つもの感覚に気づくことができる。

城ヶ崎の断崖沿いを徒歩で巡る道は、誰でも気軽に訪れることができるハイキングコースだ。吊り橋などの観光スポットを目指して一心に歩くも良し、歩きながら目に入る風景をゆっくりと感じ取りながらも良しと、いろいろな楽しみ方ができる。今まで何度も訪れたことのありながら、初めて出会ったポットホールとその中のガイアの石。拓けた観光の街の片隅に、こんなに不思議で純な想いにふけることの出来る場所があるなんて、ちょっとした驚きだった。

感謝・・・。
posted by フランキン at 02:40| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Photoスケッチブック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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