2010年10月31日

意識も感情も含めたプロセスのすべてが語られ表現されてはじめて、その体験を知ることに価値が生まれ貴重なものとなる…映画「127Hours」


ダニー・ボイル監督のこの新作映画の元となっている、ユタ州ブルージョンキャニオンで岩石に挟まれた状態から、自ら片腕を切断して奇跡の生還を果たしたアーロン・ラルストンが自身でこの過酷な体験を綴った「奇跡の6日間」 (小学館)を今読んでいるところです。読みながら気付くのは、過酷な状況の中に完全に孤絶し絶望的な時間が過ぎていく中で、ラルストンがその一分一分に自分の目が何を見つめ、どんな音を聴き、何を考え感じていたのか 非常につぶさに記憶しており、彼の人生の中でこの127時間が、おそらく最もゆっくりと、そして濃密に容赦のなく過ぎていった時間なのだろうということです。

アーロン・ラルストン 奇跡の6日間

ラルストンの他には誰ひとり人の姿のない渇いた岩と岩の間(スロットというらしい)に、彼を釘付けにして身動きできなくしてしまった岩石の大きさと重さからして、おそらくその窮地に陥った当初から、自分が生還するためには腕を切らなければならないと気付いていたと思われます。しかし誰にとっても同じだと思いますが、それは自殺するに等しい選択であって、その行為を決定的に実行するまでには多くの逡巡があったことを手記から感じ取れます。そうして幾日かを辛うじて過ごしながら、彼は生き残ることに賭けた決定的な行為、自らの腕の切断を実行することになります。そこに至るまでのプロセスで揺れる彼の想いは切実です。

この映画の描写において、その腕の切断シーンの生々しさがいろいろと物議を醸しているとのことですが、アーロン・ラルストンの体験が意味することを本当に人々に知ってもらうということを、ラルストン本人の言葉(例えば手記や講演など)以外の方法で、つまり映画という形で露出させるということを考えるとすれば、彼自身の手記が読み手に語りかけ強く迫ってくるものを僅かでも歪めたり見落とすことがあっては意味がないと僕は率直に思います。

127hours 127hours

地上に生きている人間たちの中で、いったいどれほどの人が極限というものを体験するのだろう? それはお金や資産や名誉やビジネスなどが絡んだ、人間が作った経済社会という枠の中でのものではなく、本当に明日までは生きられないかもしれない…という、絶望的で選択肢のない状況のことです。もちろん僕は人間は極限なんてものは本当は体験しないにこしたことはないと思っています。しかしたぶん、真の極限状況の中でしか見えないものというのは、本当にあるのでしょう。おそらく、アーロン・ラルストンの体験は、それを知ろうとする者にとっては、もしかすると自分自身の中にもあるかもしれない、人間として持っている内奥の力や可能性、それによって芽生える希望、微かなところから拓ける少しだけ先の未来を垣間見させてくれる、貴重な体験として大いに意味深いものだと思っています。

ただ、体験というものは、特にこのように誰もがおそらく生涯経験しないであろう体験については、一連の出来事の中の特定のシーンだけでは、それを語ることも伝えることも、ましてやそんな極限状況など想像すらし得ない受け手が理解することなど到底叶わないものです。重要な局面でなぜ、どのように、そしてどんなつもりでその決断に至ったのか? その意識も感情も含めたプロセスのすべてが語られ表現されてはじめて、その体験を知ることに価値が生まれ、過酷で二度と繰り返したくはない体験であったとしても、貴重なものと考えられるようになるのだと思います。逆に言えば、極限とその中での人間の有り様を真に伝えたいと思うのであれば、腕の切断シーンも欠かせないプロセスのひとつであり、それをラルストンの記憶のとおりに表現しないなら、はじめからこのような映画は作らないほうが賢明ではないでしょうか。ニュースの中でのダニー・ボイル監督の言葉は、生きるために必要だったラルストンの腕切断を出産に例え、決して目を背けるべきものではないことを強調し、脚本のサイモン・ボーフォイは「アーロンが実際に体験したことを忠実に描く責任があった」と述べています。しんどい映画なのでしょうが、僕はこの描き方で良かったのではないかと考えています。(まだ未見なはずなのに…笑)

ラルストンの手記にまた戻りますが、彼の書いた「奇跡の6日間」は、決して腕の切断から想像されるような、おぞましい体験ばかりが書かれているわけではありません。身動きが封じられたスロットの中で、自分などまったく無き者であるかのように陽が昇りやがて暮れていく…冷え切った暗い岩と岩の間で太陽の光のありがたみを感じ、一滴の水が、一口の食べ物がいかに自分の身体の細胞ひとつひとつにとって大切なものであり、これまで人生を生きてきた自分は生かされていたのだという感謝を呼び起こします。想いは時間や場所を跳び越えて、今この遭難の事実を知る由もないはずの家族や親しかった友人達へと飛び、関わった多くの人たちとのふれあいや未完結なままの為すべきことへの愛情や後悔、そして彼らへのもはや届かない親愛を独りで噛みしめ、再び完全に孤絶した細いスロットの中にいる自分に戻ってくる…。手記のうちの大半は、この極限の中で彼が自分自身の生命と真っ直ぐに向き合いながら廻った内省的な思索の記録です。記憶と意味の残る読書体験をしたいと思われる方なら、読んでみることを僕もお薦めします。

物議がかもされているという127Hoursですが、確かに観客を選ぶ作品といえるかもしれませんね。生理感覚的に血を見ることができないし、したくないという人は、映画館に行く…行かない…についての選択肢が自分にあるのだということを、思い起こしていただきたい映画かもしれません。(ちなみにフランキンは血を見たいわけじゃないです。
そんな映画は他にいくらでもあるけど、別にそういうのを見たいとは思わないです。)

ひらめきこのブログ内の関連記事
サーチ(調べる)サードマン〜アーロン・ラルストン〜ダニーボイルの127hours
サーチ(調べる)極限状況のサードマン現象〜人間という生命の形について未到達の真実の存在を感じ畏怖さえ覚える


サーチ(調べる)ダニー・ボイル監督作品『127 Hours Trailer』
posted by フランキン at 18:34| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック