2010年10月06日

人はそれぞれの「生」にどんな意味を付していくのか?


手紙というものは
通常は私信として届けられているもののはずであるし、
こういう状況の手紙であれば封書は当然だと思うのだけど、
それが相手に受け取り拒否されたからといって、
どうしてマスコミにその内容の文面が公開そして報道され、
受け取り拒否をされた容疑者が「彼がっかりしたと思う」などと、
弁護士が語っている様子を僕らが目にすることになるのだろうか?
文面を見た被害者家族による公開なのかもしれないけど、
そうでなければいったい誰がどういう経緯でマスコミに渡すのだろう。

容疑者には彼なりに向き合っている現実というものがあるのだうけど、
受け取り先が決まっていてその受け取り先に拒否された手紙を、
第三者である弁護士がコピーとはいえもし開示したのだとすれば、、
受け取るはずであった被害者の家族からすれば、
自分宛の手紙を無断で公開されたことにもなる。
通常の手紙のやり取りでは考えられないそんなありさまには
やはり手紙の意図そのものを非常に疑問に思う。

それにしてもこの事件、胸が痛む。
謝罪では償いきれない罪と罰・・・
十字架を背負うという言葉では担いきれない。

人間というのはこの世界に生まれてきて、
それぞれその「生」にどんな意味を付すのか?
人は誰でも問われているんだな・・・
そんなことを思う。
ラベル:市橋容疑者
posted by フランキン at 14:29| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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