2010年08月15日

僕は戦争の風景に何を感じるのだろう?

今日は終戦記念日と呼ばれる日…
毎年のこの時期になると、
65年前の真夏のわずか数日という日々の間、
いかに当時の日本が多くの感情に揺れた日々であったのかということを
思い起こさせられます。

僕は戦争を知らない子供たちの子供のようなものだけど、
でもこういうことをしみじみ考えてしまうのは、
記憶に残るお祖母ちゃんの存在があるからかもしれません。

小さな頃の僕の毎日には、常にお祖母ちゃんがいました。
当時のたいていの家庭がそうであったように、
うちの家族の家も狭かったので、
夜やすむ時には2つの部屋にみんなでざこ寝するような感じ…
なので僕はいつもお祖母ちゃんとふたりで、
いつもその横で眠るのでした。

今でも思い出すのは、毎日すぐには眠れなかった…ということ。
寝入りばなに必ずお祖母ちゃんは昔のことを独り言のように話すのです。
関東大震災で焼け出されたこと…戦争のこと…
どれだけ怖かったか…ということ。

「また始まった…」と思うのと同時に、
自分が影も形もこの世になかった過去という時期というのがあって、
(それも不思議だったな…「当たり前」ってのは不思議なものだ)
その中でお祖母ちゃんは、テレビや本の中に見るだけで、
僕がおぼろ気にしか知らない戦争の風景を、
じかに見てきたのだな…と思ったものです。

昔ばなしが済んで、「もう寝ようね」…しばらくすると、
お祖母ちゃんはよく夢にうなされていた。
はっきりとは聴き取れない誰かの名前を呼んだり、
「おーーーい」と誰かに呼びかけていたり…
その声が怖くて、なかなか眠れない夜が幾つもありました。

当時は今とは比べ物にならないくらい不便がいっぱいあったし、
世間も豊かとは決して言えなかった…
でもお祖母ちゃんは、地震や戦争の時代が過ぎて、
その時の今がどれほど安心感があって幸せか…
「タカオちゃん、戦争は怖いんだよ、酷いんだよ…」
お祖母ちゃんは本当に戦争が嫌いなんだ…と、
子供心に強く感じたものです。

お祖母ちゃんのような記憶をもつ人たちは、
戦争で大切な人がどこかへ行ってしまうことも、
そこから帰ってこないことも…毎夜空襲に怯えてすごすことも、
食べ物を得られずにひもじい毎日を過ごすのも、
それはみんな、辛くて、酷くて、二度と経験したくない、
そしてこれから先を生きる子供たち孫たちには
絶対に経験させたくないことだったに違いない。

ところで、あの戦争が終わってその後今まで、
僕らが戦争や紛争に巻き込まれずにこれたのは、
「核の傘の下にいたからだ…」という話があり、
なのでやはり「抑止力としての核は必要」…
そんな考えが、今の世の中では「現実的」というものに当たるらしい。

なんとなく何処かに敵を作り、まだ起きてもいない争いに備えて、
いつでも受けて立てるようにしておくことが、
「現実的」で「責任有る」考え方なのだという話が、
幾つもの机上で功名心を伴って語られている…
残念だけど、人々の中でそういう考え方への熱意を増し、
恐れへのエネルギーを加えつづけていくなら、、
やがてはそれが現実となっていくような気がします。

僕の考えること、書くことは抽象論すぎる・・・
そんなことを時々言われます。
そうだな・・・と思う。
でもそれでいいと思っています。

人が抱く「考え」には強い感情が伴っていてこそ
はじめて力を持つと僕は信じています。
物事について考える時、それぞれへの固有の感情を
はっきりと意識していることのほうが
それが正しいとか間違っているとか以上に、
また必要か不必要であるかという都合以上に、
何より大切だと考えています。

65年間戦争に巻き込まれなかったのは、
核の傘や核の抑止力があったからだ…とは、
僕は必ずしも思っていません。
憲法9条のおかげとだと思っているわけでもない。
(あの条文はとても好きですけどね…だからあれは象徴だと思ってる)

戦争が終わって65年、たぶんこの長い時間の流れの中で、
あの時代の出来事に接した人たちが抱いた感情…
経験し目にした風景から感じる
戦争という情勢への強い忌避・拒否・嫌悪の感情が、
この国とここに住む大多数の人たちの心を占めていたからこそ、
火種が近隣に数多くあった冷戦の時代にも、
日本人は戦争に巻き込まれずにいれたのだと僕は本当に思っています。

あの戦争の記憶から、二度と戦争を起こさないとすること、
戦争という情勢を厭うこと、憲法9条を守ろうとすること、
そういうことって、しばしば
過去の戦争に関連して必要以上に自らを貶める「自虐史観」に基づく
「自虐感情」」の表れだなどと言われるけど、

でも、どこかの国が横暴だから…
どこかの国が成長して経済も軍事も強くなっているから…
だからそこからいつかは「攻撃される」…と前もって思い描き、
考えや行動、自分以外の人々の集団に対する
感じ方や受け取め方を左右されてしまうことのほうが
僕にはずっと「自虐的」に感じられます。

戦争をすることにも、それに備えることについても、
そうするべきとする理由をまことしやかに語る人たちが必ずいます。
人々は「もっと国防を考えるべきだ」…と言うかも知れませんが、
同胞の誰かが自主的な死の可能性を選択してくれることを
期待せずには必ずしも成り立たないかもしれないという
皮肉な意味合いを伴う「国防」という表現…
それを踏まえた上で語っているようには感じられません。

兵力や軍備を増すべきだと言う人たちの中に、
いったいどれほどの人が自ら先頭に立って銃をとり、
命を懸けるつもりでいる人がいるのでしょうか?
「自分以外の誰かが自分のために攻撃を防いでくれる」
(防いでくれるべき)
そう考えながら軍備を増強、核武装までを考えているのだとすれば、
それこそはなはだ非現実的、また無責任に感じてしまいます。



戦争は起こしちゃいけないこと…
もちろんそのはずなんだけど、でも多数の人たちが戦争の風景を実際に見、
それをじかに経験した故に抱かれてきた
戦争という情勢を忌み嫌う感情を越えて、
それを受容しなければならないとする考えが
戦争を忌み嫌う感情を凌駕してしまったら、
いずれはその情勢を仕方の無いものと人々は許容し、
結果的に引き寄せてしまうのでは…?本当にそう思う。

正しいか間違いかの問題でも、
政治や国家間の都合の問題でもない…
なんだか毎年この時期に愚痴っているような気がするけど、
やはりそれは、その風景を真っ直ぐに見つめ、
果たしてそれを自分は受け入れられるのか?
そこに立てるのか?それとも心底拒絶(忌避)したいのか?
より多くの人々がいったいどちらの感情を強くいだけるかに
かかっているのではないかと思うのです。

原爆や終戦についての話題が増える8月のこの時期、
自分の心の中では、果たしてどんな感情が自分を支えているのか…
それを確かめるにはいい機会ですね。
 


ラベル:終戦
posted by フランキン at 21:27| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。