2009年09月11日

山は半分殺してちょうどいい

ちょっと自分の中でバランスをとりたいのでもうひとつ日記を残そう。



熊谷達也さんの小説、「相克の森」を読んでからもうずいぶんと時間が経ちます。その本の中で物語の起点となっているのが、「山は半分殺してちょうどいい」という、現代に生きるあるマタギの言葉でした。

自然の中から必要なものだけを受け取るために、自分自身も自然と渡り合い、本当に必要なものだけを受け取る。それは文字通り自分自身の手で動物の命をとることであり、その生き物の死をまっすぐに見つめ受け止めることも意味します。すべては与えられているものであり、なにひとつ無駄にしないという人間の側の覚悟を感じました。

本の中では、マタギの熊狩りに対して強硬に反対する姿勢をもっていたある若い女性ジャーナリストが、熊を保護しようとする環境保護家たち、また、熊狩りを今も行っているマタギたちとの交流から、
次第に想いの変化させ、「森は半分殺してちょうどいい」という言葉の真の意味を受け止めるに至るまでを描いていました。正直…読みながら涙が流れました。

それは、熊がかわいそう…とか、自然を大切に…とか、地球にやさしくとか…そういったよく耳にするものとは少し異なって、自分を含めて今の消費社会に住む現代人は、ただ受け取るだけで、そこに間違いなく存在しているはずの犠牲とプロセスに、いかに無知・無頓着になっているかを思い知らされたような気がしたからでした。

食品となった生き物を口にする時、僕らはほとんどそのプロセスを見ようとしません。そのプロセスのすべてとはいいませんが、目をそむけつづけるならば、そこに「感謝」は生じないでしょう。

人間の生きる世界と他の生き物たちのそれとがせめぎ合っている現場に生きる人たちの選択を、僕はとやかく言える立場にはありません。熊猟やイルカ漁、その他のものについても同様です。

もちろん、自分の中でそれらへの態度を持つことはそれぞれに出来ることですし、その姿勢が各々異なるものであったとしても、それは自然なことだと思います。いずれにしても、僕自身も含めて、人はもっともっと、日々受け取っているものの意味と重さと貴重さを見つめるべきですし、そういう観点を培い、日々養うべきなのだろうと思います。

今日のノアノアに電話出演してくれた船長の態度からも、同様なものを感じ取ることができました。放送前の僕の勝手な予想では、イルカ漁に対するアンチな姿勢を船長はもっとハッキリと表現されるものと考えていました。

しかし、船長の姿勢は決してイルカ漁批判ではなく、自然とどう付き合っていくか…はたまた人間としてどう生きていくか… ということがテーマにあったように感じます。そのひとつの形が、船長としてはイルカクジラウォッチングという選択だったのです。

ものごとにはバランスが必要ですね。今注目を集めているイルカ漁を告発する映画やその影響についても、同じように考えたいと思います。

「相克の森」を読んで僕の中で変わったのは、狩猟民族は野蛮で農耕民族は文化的…というある種の固定観念は、時の流れのどこかで刷り込まれ、誤解されたものではないか?という観点が生まれたことです。何も確信はありませんが…

「山は半分殺してちょうどいい」

今日の放送での話題から、再びこの言葉を思い出したのでした。


posted by フランキン at 00:53| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あの映画見た?この本読んだ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。