2013年07月15日

ひぐらしが鳴く頃・・・



蝉の声が聴こえてくると、「夏だな」・・・としみじみ思う。小さな頃を過ごした神奈川の藤沢では、聴こえはじめの蝉はいつもニーニーの声で、そのすぐ後からアブラゼミが幅を利かせるようにしてがなり加わって、それからミンミンやツクツクホウシ・・・といった順番だった気がする。ところが伊豆に来てからは、その夏に一番早く耳にするのは明け方辺りに聴こえてくる、ひぐらしの「カナカナカナ」・・・という声に変わった。

大抵の蝉たちの声が、茹だるような夏の暑さの中で発信点を中心に滲むようにして広がっていく波状円を感じさせるのに対し、仄かな朝の明るみの中でまだ光が足りずに熱も地に落ちて空気は色ももたず、建物や樹々も何もかもがシルエットとして感じられる黎明の時刻に響くカナカナという声は、最も姿が見えにくくて存在が希薄に感じられる種類の蝉の声にも関わらず、目に見えるかのような確かなカタチの感触を帯びていて奇妙な説得力がある。確かなモノ・・・過ぎてしまった後に記憶として何が残るのかは、そんな感触の差の違いに依るのだと思う。そう考えると、もう幾度の夏を僕は通り過ぎてきたのだろう。

ひぐらしの鳴く頃・・・なぜか子供の頃は、夕刻の他はひぐらしの声を聴いた覚えがないような気がする。ちまたで話題になったアニメのタイトルではないけれど、その名の通り、ひぐらしは日暮れの辺りに声を挙げるもの・・・そう思っていた。要するに、僕は今、少年の頃とは異なる時間軸に身を置いているのであって、目に入るもの、耳にするもの触れるもの・・・体験するリアルが小さな頃のそれとは微妙にズレているのだということに思い当たる。人にとって過日の記憶はもう自分がいない世界で繰り返される一種のファンタジーのようなものなのだろう。そうか・・・だからなのだろうな・・・と、思う。夏を迎えて高まる気分の裏側で覚える感情のゆらぎには、もう後にして久しい、今でこそ大切だと思える幾つもの夏の時間への手の届かない憧れや懐かしさのようなものがいつでも混ざっているのだ。大切なモノ・・・やっぱり過ぎてから気が付く。

シェアした動画はちょうど1年前の今日にUPしたもの。主な風景は「伊豆の瞳」とも称される伊豆一碧湖(いっぺきこ)で、背景に流れるメロディはスパニッシュテイストのギターとピアノによるデュオユニット、UNOのセカンドアルバム「月は光りぬ」のラストを静かに飾るシンプルなバラードナンバー大切なモノ


posted by フランキン at 17:37| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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