2013年06月28日

言葉を帯びた香り、音、動き・・・飛浩隆の「デュオ」にからめて

2007年に公開された映画で「パフューム〜ある人殺しの物語〜」という作品がありました。映画の公開に合わせて配給会社のギャガコミュニケーションズが企画、JAA日本アロマコーディネーター協会の監修のもと、映画からイメージした香りのブレンドを競う「永遠の美の香りコンテスト」が開催されました。もう6年前のことです。昨日のノアノア、「茶色の小瓶と碧の地球」にゲスト出演していただいた大木いずみさんは、そのコンテストでグランプリを受賞した香りをブレンドした女性でした。

お話を伺いながら感じたのは、ひとつひとつの香りをブレンドしていくそのプロセスが、言葉を紡ぐことと少し似ているように思えたことでした。目にするもの耳にするものを問わず、人が受け止める一連の言葉(文章・話)を短く切り詰めていくと、文章、文節、単語、幾つもの品詞が浮かび上がってきます。個々に意味を帯びている言葉のひとつひとつは、その選択と結びつきの順序により単独では持ち得なかった意味と作用を帯びるようになり、それにふれる人が自身の内に予め持っている知識や記憶を絡めて瞬間的に新たな経験を創造し、人それぞれの風景をかもし出すに至ります。香りも似ているな・・・と思いました。

香りが働きかけてくる作用も、ひとつひとつに特色を持つ精油(その精油独自の香り成分の組成)の選択と分量(軽さ・重さを含んだ揮発順序も含め)と希釈度合等々、そのプロセスを経て単独では持ち得なかった働きかけを持つに至り、それにふれて感覚する人に作用し、そうして物を語る≠謔、になります。映画や小説のストーリーや劇中のキャラクターが放つイメージを香りに置き換えて表現するということ・・・もしそれができるのだとすれば、きっと香りにも言葉があるのだと思います。香りが意味を帯びるということは、それ自体が言葉になることなのかもしれない・・・そんな風に思います。

偶然ですが、昨夜から今朝にかけて、飛浩隆という作家の「デュオ」という中編小説を読みました。事故によって指を痛めて以来、自ら天才ピアニスト足り得る才能に恵まれながらも今は調律師として音楽の世界に留まっている男が、新たに調律を請け負うことになった若き天才ピアニスト、グラフェナウアーとの出会いで経験する音楽世界との異質な関わりと、人間の感覚と存在を突き詰めて表現した物語なのですが、奏者の意を完璧にくみ取って整えられた楽器と、優れた感性と技量により裏打ちされた表現の仕方によっては、譜面の中に位置づけられた一音一音が絶妙な本来性を帯び、強力な意味の働きかけをもって聴き手に迫る・・・それは音楽がかもすニュアンスの域を軽々と越えて、もはや明確に意思を表明する言葉のようであり、音楽もまた形を替えた言葉なのだと感じさせられる読書体験でした。

言葉はいらない・・・強く印象付けられる何ものかを経験した時に、しばしば人は言葉を失くし、また手放します。説明も解説も何もかもを必要としない、体験する感覚としての音楽、香り、動き・・・それらはきっと、人が生き物として感知し得る物理的な刺激を超えて、また、技術的に人間が取得できるカタチとは異なる在り方でこの世界に漂う何らかの情報を抽出して、垣間見せてくれるものと言えるような気がします。接した瞬間に人の心を強烈に捉えて離さないような香りの再現、音楽、舞踊などに接する時に、僕らはもしかしたら、この世界、ないしは空間に放たれて久しい、かつてより存在する何ものかを受信・解読・抽出した言葉を経験しているのかもしれません。僕はそんな風に思うのです。この世界に何か普遍的なものが在るのだとすれば、音楽であれ、文章であれ、舞踊であれ他のなんであれ、感覚し得る言葉(文字通りの文字によるものに限らず)として、無数の人々が表現してきた無数の積み重ねの中に顕れ出でているものなのかもしれません。

そう考えてみると、今の自分の居場所である伊豆において日毎に目にする海や空、山や森の風景の中にも、言葉に替えられることを待つ幾つもの情報が溢れているのかもしれません。海を見て、空を見て、風を感じ光を浴びて、ふ・・・と言葉が浮かび上がってくることがあります。そんな瞬間に働きかけてきた感覚を何らかの形で言い換えて、声にしろ文字にしろ、表現し、残していくということ・・・それを楽しみながら大切にしていきたいと僕は思います。昨日から今日にかけて・・・そんなことを考えさせられた一日でした。


posted by フランキン at 17:47| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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