2013年05月24日

満月を見つめるということ



満月というのは気づいた時には既に今日の空に浮かんでいて、観察者である僕をいつでも一歩先んじています。ポッカリと浮かぶ月・・・などと言い表したくなるのは、きっといきなり視界の中心を占めてしまうその唐突なありさまから受ける印象も含んでのことかもしれません。満月というのは限りなく丸いのだけれど、もし予備的な知識(今や常識だとしても)がなければ、僕はその丸い形を「円」として受け止めていたことでしょう。夜が深まるにつれて空がさらに暗くなり月の明るさが更に増してくると、目を細めて見つめる月の表面に印された、古来から無数の人々の想像力を刺激しつづける模様に絵と動きを感じるようになります。幾つもの神話や民話が見出されてきたあの丸い月を円ではなく「球」として見つめるということ・・・今やそんな当たり前も、そこに至るまでにはずいぶんと長い時間の流れと人間の意識の変遷があったのかもしれません。

今夜の満月も、すっかり中天にかかりました。月の光が音を立てるようにして注ぐ伊豆高原で月を見つめる・・・足元の小さな小石や木々の枝葉もそれぞれにくっきりとした影を帯び始め、ちょっと不思議な気分で今夜の空を観察している自分もいつのまにか風景の一部となっているような気がしてきました。

シェアした動画は、ニュージーランドはウェリントンのマウントビクトリア展望台に上がる月のリアルタイムビデオです。人々のシルエットがなんとなく童話的です。こんな風にゆっくりと月に戯れてみるのもいいなぁ〜^^


posted by フランキン at 21:31| 静岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海のない伊豆の道と水のある風景

伊豆長岡から冷川峠を通って伊豆高原へと帰るのですが、エンジンをウァンウァン吹かしつつひと山ふた山と越えながら走る急な登り下りの道の両側には、いつ頃に造られたものなのか古い石垣で囲まれた小ぶりな田んぼが、世代を超えて受け継がれたままの姿で幾つも視界に入ってきては飛び過ぎていきます。朝の太陽を受けて滑らかな光をたたえた田んぼは、山の斜面の木々の様子と共に小さく切り取られた空を映して土色と緑色が混ざり合った鏡のようです。海のない伊豆の道にも、水のある風景≠ェあります。

途中で八幡東≠ニ書いて「はつまひがし」と読む小さなT字交差点があるのですが、此処を通る度にいつものルートから逸れて山の中へと細く分け入っていく道へと進んでいきたくなる誘惑に駆られます。この道はひと月ほど前に一度だけ通ったことがあるのですが、しばらく走っていると車がようやくすれ違える程度の細い道になって、深い森の中をしばらくウネウネと走ることになります。背の高い森の木々の枝をすり抜けてきた太陽の光が木々が作る影とともにフロントグラスをかすめ始めると、森を支配する緑色に慣れた目に陽の光で目薬を点されたような清涼な感触を味わえます。此処でもやはり、海の見えない伊豆の風景の中で水と潤いを感じます。

たまには目的を持たずにいつもの道からドロップアウト・・・ちょっとした好奇心?冒険心?・・・そういうのを満たしてあげるというのも、日々の営みの中で繰り返し生き返るための大切な方法のひとつに感じます。
posted by フランキン at 10:34| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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